「ナルニア国物語」の一つに、「朝開き丸東の海へ」という巻があります。その冒頭のシーンで、主人公のルーシー、エドモンド、そしていとこのユースタスが、「朝開き丸」という帆船の絵を見ています。すると不思議なことに絵が現実のものになって、3人はこの絵に取り込まれ、ストーリーが始まります。はたから眺めていた傍観者だったのが、壮大な冒険の参加者になったシーンです。
旧約聖書に同じように傍観者だったのが、壮大なスケールのストーリー、つまり天地創造の神の織り成すストーリーに飛び込んだ、そんな人、アブラハムのことが書かれています。
アブラハム、はもともと異教の地で育っていましたが、神が導く土地へ行け、というので妻を連れて出立しました。 いろいろな苦難や出来事を通して、神様に守られたりしたのですが、あくまで神様とはある一定の距離を置いていました。
ところが、そんなアブラハムが、何と後に「信仰の父」と呼ばれ、ユダヤ人を中心に広く敬われる人物に変わったのです。なにか素晴らしい行いをしたのでしょうか?
一言でいうと、そうではなく、神様の織り成すストーリーに飛び込んだ、ということだと思います。自分の自力による自分のためのストーリーではなく、神のストーリーに飛び込む、ということは神を信頼する、ということに他なりません。それが聖書において、アブラハムは「義」みなされた、という意味のエッセンスです。
使徒パウロはローマ人への手紙4章でこう書いています。(メッセージ訳の日本語意訳をつけました)
“So how do we fit what we know of Abraham, our first father in the faith, into this new way of looking at things? If Abraham, by what he did for God, got God to approve him, he could certainly have taken credit for it. But the story we’re given is a God-story, not an Abraham-story. What we read in Scripture is, “Abraham entered into what God was doing for him, and that was the turning point. He trusted God to set him right instead of trying to be right on his own.”” Romans 4:1-3 MSG
「では、物事をこのように新たな面から見て理解するにあたって(義人は信仰によって救われるという点)、私たちの信仰の父祖、アブラハムについて知っていることをどのようにとらえ、位置づけるべきでしょうか。もし、アブラハムが神に対してした行動によって神から認められた、ということなら、アブラハムは自慢の種にすることもできるでしょう。でも、私たちに与えられているのは、神のストーリーであって、アブラハムによるストーリーではないのです。聖書には「アブラハムは神がアブラハムに織り成している人生に飛び込んで、それが決め手になった。自分の努力で自己正当化するのではなく、神が自分を正しくしてくれる、と神を信頼した。」と書いています。
得てして、「しっかりしろ」と自分に言い聞かせて、「成功するには努力第一」と頑張るのですが、人生に喜びがなく、人間関係もギクシャクし、自分は一体何のために頑張ってるんだ?と悩んでしまっていませんか?聖書はそんな時にこそ、神のストーリーに飛び込んでごらんなさい、と呼びかけていると思います。