「天命に従うこと」

オズワルド チェンバース著の “My Utmost for His Highest” は365日毎日ひとつづつ読んでいけるディボーションの書です。 そのなかから、”Heavenly Vision” 天命というディボーションから想うことをシェアします。

引用文を記載し、その下に私の想うことを書き連ねてみました。

原文に興味がある方はこちらを参照ください。

(日本語訳はいのちのことば社から過去に、「いと高き方のもとに」というタイトルで翻訳版があるようですが、在庫や料金は出版社に直接お問い合わせ下さい。オンラインではあいにく見つかりませんでした。)

神様から与えられた「天命」を見失うのは誰でもない、自分の責任です。どうして見失ったかといえば、自分の神様との歩みが滞っているからでしょう。神様への信仰も、日常の生活にそれが反映されていなければ、天命は全うできません。

神様から与えられる「ビジョン」は聖霊に頼って、神様とともに歩んでこそ、現実のものとして実感し、共感し、それが自分の生活に反映するわけで、その逆ではないんだなぁ、と考えさせられます。

天命に対して忠実に生きる唯一の道は、私たちの最善をいと高き方に捧げる、つまり、神様の栄光のために最善を尽くすことでしょう。常に神様からの天命を心に刻み込みながら生活しよう、と心に決めて歩む以外にこれは可能ではありません。祈りの時とか教会行事とかだけでなく、日常生活の毎分毎秒において、実際に天命に忠実だったかどうかがリトマス試験紙なのです。

チェンバース師の ディボーション書 ”My Utmost for His Highest” のタイトルにもなっているフレーズが出てきます。「僕は取るに足らない人間で、大したことはできないんだ」というのは実は、”pusillanimity” という罪だ、と信仰者、トマス・アクィナスが定義しました。訳せば「小心」のことです。Rebecca DeYoung氏が著書”Glittering Vices” において、アクィナスを引用し、この「小心」に冒されると、「神様から受けた天命から身を引くようになる。努力を必要とされると見れば、『小心』者は自分の力に頼り、失敗してしまうんじゃないか、という恐れに目が行ってしまい、自分では到底夢見ることすら出来ない素晴らしい神様の王国での働きのために必要な備えと恵みを結局受けようとしないで終わるのです。燃える柴の聖書の箇所で、モーセがああだこうだと言い訳がましくしたのがいい例です。(p.8 序章) 」と語りました。False humility 。。見せかけのへりくだり、とでも言いましょうか。自分も良くこのロジックを神様に対して述べて来ているなぁと想わされています。

「もし遅くなってもそれを待て、、、(旧約聖書 ハバクク書2章3節)」 私たちは自己努力を通して天命を成就させることなど不可能です。天命がおのずと花開くのを待ち、心を動かされるままに生きる必要があるのです。物事は実践的に解決しようとするあまり、何が天命だったか忘れてしまいます。はじめは天命を理解していたのに、待てなかったのです。 自分で出来る、と考え、ばたばたと物事をこなしていくと、天命が成就したことに気づかない時があります。「遅くなっても」天命を待つ、ということが神様に忠実であるかどうかの試金石です。実践的な働きで忙しくすることは、天命の成就を見逃す、という魂の安らぎにかかわる一大事に繋がりかねません。

「待つ」ということは現代文化の流れに真っ向から対抗するコンセプトでしょう。私は「インスタント文化」なんて言う言葉が流行った時代に育ちましたが、現代は”connected” 常につながっている。。。インスタントより速いですが、そんな時代です。自分以外の何か・何者かの出方を待つ、というのは戦略上ではあり得るでしょうが、「従うため」に待つというのは現代人のボキャブラリーには無くなっているのではないでしょうか。私自身も、自分で出来ることにすぐ飛びついて、解決策はテクノロジーを縦横無尽に駆使して、周りの人たちを「リード」(つまり悪く言うと自分の目的のために利用。。。これはまた別のトピックで紹介したいコンセプトです)しつつ道を切り開く、ということを良し、としていることが多いです。常にこれが間違っているということではないでしょうが、神様の「ビジョン」に沿って歩むという際にはこの性向は裏目に出ます。忙しくしすぎて、イエス様の声を聞き逃す、なんて、クリスチャンにとっては致命的ですから。

神様の与える嵐に目を向けましょう。聖徒たちを根付かせるためには嵐の只中をくぐりぬけさせることしかないのです。開けてみたら空っぽの種だった、などということが無いでしょうか?天命を見出した、そのひかりの中に生きているかどうかに関わっているでしょう。神様が嵐へと送り出すのであればそこに行きなさい。もちろん神様が送り出してからです。自分勝手に進み出ていくなら、役に立たない、空っぽの種になってしまいます。しかし、神様が送り出し根付かせるところに忠実に根付くなら、あなたは「豊かに実をならせます(新約聖書 ヨハネ15章8節)。」

神様が善(good)でなければ到底このような考え方には同意出来ないでしょう。古い聖歌に「人生の海の嵐に」というタイトルのものがあります。人生はとかく嵐が吹くもので、順風満帆のまま、というのは普通は無いですね。この聖歌は「救い主イエスの手にある身はいとも安し」と結んでいます。嵐が焦点ではなく、誰の手の中にあるか、が英語でいう ‘game changer’ なのだと思います。チェンバース師も実を結ぶのは神様の送り出された先に、「はい承知しました」と進み出て根付くことによる、というのが大事な点だと思います。得てして、周りの状況に左右されやすい私たちは、そこに目を向けないと、『小心』だけでなく、環境に惑わされて「天命」を見失うことになる、と言っていると想いました。

チェンバース師は祈りでこのディボーションを閉じています。「喜び」「楽しみ」というのは、ハピネスではなく、神様と共に歩んでいる、ということからくる天命の理解とそこに歩む充足感であり、それゆえに、はたから見ても素晴らしい生き様だ、と見えることでしょう。ぜひそうなりたい、と願いつつ彼の祈りを復唱します。

 

天命に生き、その「光のうちを歩む(新約聖書第一ヨハネ1章7節)」ことが絶対に必要です。全てにおいて、ああ主よ、あなたを第一にすることが出来ますように。あなたと私のこころがつながりつづけて、周りの人にも、私が神様の喜びにあふれている、人生を楽しんでいると目に映りますように。」


( 原文)

Obedience To The “Heavenly Vision”

Oswald Chambers

From “My Utmost for His Highest”

If we lose “the heavenly vision” God has given us, we alone are responsible—not God. We lose the vision because of our own lack of spiritual growth. If we do not apply our beliefs about God to the issues of everyday life, the vision God has given us will never be fulfilled. The only way to be obedient to “the heavenly vision” is to give our utmost for His highest—our best for His glory. This can be accomplished only when we make a determination to continually remember God’s vision. But the acid test is obedience to the vision in the details of our everyday life—sixty seconds out of every minute, and sixty minutes out of every hour, not just during times of personal prayer or public meetings.

“Though it tarries, wait for it . . .” (Habakkuk 2:3). We cannot bring the vision to fulfillment through our own efforts, but must live under its inspiration until it fulfills itself. We try to be so practical that we forget the vision. At the very beginning we saw the vision but did not wait for it. We rushed off to do our practical work, and once the vision was fulfilled we could no longer even see it. Waiting for a vision that “tarries” is the true test of our faithfulness to God. It is at the risk of our own soul’s welfare that we get caught up in practical busy-work, only to miss the fulfillment of the vision. Watch for the storms of God. The only way God plants His saints is through the whirlwind of His storms. Will you be proven to be an empty pod with no seed inside? That will depend on whether or not you are actually living in the light of the vision you have seen. Let God send you out through His storm, and don’t go until He does. If you select your own spot to be planted, you will prove yourself to be an unproductive, empty pod. However, if you allow God to plant you, you will “bear much fruit” (John 15:8).

It is essential that we live and “walk in the light” of God’s vision for us (1 John 1:7). In all matters, O Lord, I would acknowledge You. Keep me in tune with You so that others may catch the joyousness and gladness of God.