ルカの福音書 5:12‐39

重い皮膚病の男のいやし (5:12〜16節)

12 さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」

13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。

14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。

16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

ルカの福音書 5:12‐16

コミュニティーへの回復

あなたの身の回りに凶悪犯はいますか?重い病気、例えば感染性・伝染性の高い病気にかかった人はいますか?もしそういう人がいるとしても、大抵はなるべく接触を避けておこう、と思うのではありませんか? そうして、そういう人たちは大抵はどこにも自分のいる場所が無くなっているのが現実ではないでしょうか?

「らい病」と旧版の新改訳聖書には訳されていますが、2003年第3版、そして2017年版では「ツァラアト」というヘブル語の発音に基づいた単語に入れ替えてあるそうです。どんな病かというと重い皮膚病であると言われています。この単語の入れ替えは、らい病=ハンセン氏病(本当は少し定義が違いますが)そしてそこからくる差別意識があるから、ということでした。

そのこと一つとっても、すでにそのような病を持った人は何らかのレッテルや思い込みを皆から持たれていることでしょう。HIV保有者の方達、肺結核、C型肝炎など、治療上隔離が必要だったり、社会的に(誤った知識に基づいて)除け者にされがちです。多くのクリスチャン団体は、イエス様の行いを模範として、積極的に交流をもち、支援の手を(文字通り)差し伸べているのも事実です。

さて、その当時ではこの重い皮膚の病を持っているものは律法上「汚(けが)れている」と見なされていました。(レビ記13章)そこでは、祭司が汚れていると宣言された人は、「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ記13:45-46)

一週間ごとに祭司に病状を見せ、「きよい」と宣告されるまで、一人で自分のコミュニティーの外に生活し、人にうっかり病気をうつさないために、常に大声で、服を裂き、「汚(けが)れている!」と叫ばなければならないのです。何という恥ずかしく、自尊心を傷つけられることでしょうか。家族の心中もただならないでしょう。

そんな男が、イエスの前にひれ伏して、癒しを乞うたのです。

イエスは、その言葉通りこのらい病の男の病気を癒すことを望み、すぐにこの男は癒されたのです。そして、「よかったね。じゃあまた。」と行ってしまったのではありません。イエスは細かくフォローアップしました。追加で、祭司に見せよ、と命じました。当時、「汚れた」状態のものが「健全」になったことを証明することができたのは祭司だったからです。この重い皮膚病の男は病が癒されても、正式に「汚れがなくなった」と宣言されなければ自分の家族、コミュニティーに戻れたにせよ、日本風に言うなら向こう三軒両隣の噂(風評)はおさまらず、現代風であればSNSへの目撃投稿は冷たいものばかりだったでしょう。

つまり、イエスは、病自体もさることながら、全人格・尊厳を考えると、コミュニティーへと回復することが必要だとご存知でした。だからフォローアップされたのです。イエスはそれを「望んだ」のです。

台風19号の後の出来事をある方のブログで読んだことがあります。それはホームレスの方々が緊急の避難所から受け入れを拒否された、という内容のことでした。コミュニティーを求めて行った方々が拒絶されたその思いはいかばかりか、と感じました。色々私には見えない、わからない事情もあるでしょうが、このイエスのらい病の男の癒しの記事を読んでそのブログのことを思い出しました。イエスが単に病気を治してくれるヒーラーではなく、人間の尊厳をコミュニティーの中で、コミュニティーに繋がることで回復させたい、と願う神様であることを心から感謝しました。

証しとなるため

さらにイエスは、信仰によって癒されたこの男が、人々への証しとなるように、感謝の捧げ物をするように(おそらく毎年恒例のイスラエル訪問の際にでしょうが)命じたのです。不思議にもイエスは彼に口止めをして、ただ単に人々が分かるように、この癒しが神様からの賜物であると、捧げ物をして証しせよ、ということでした。

タッチ

また、この記事にはイエスのことをより深く知ることの出来る鍵が潜んでいます。それは、イエスがらい病の男に触れた、という、大胆な行動のことです。当時、「汚れた」物・動物などに触った者は自分自身が汚れを招いてしまいました。ルカの福音書に出てくる「善きサマリア人」のたとえ話には強盗に襲われ、血みどろで半殺しになった男と、そこに通りかかる祭司とレビ人(どちらも神を礼拝するのに中心的な役割を担う)、そしてサマリア人が出てきます。具体的な内容と考察はルカの10章になった時にシェアします。ただ、ここでもイエスが表現したのは、祭司もレビ人も怪我人のいる道の反対側を歩いた、とあります。血に触れれば汚(けが)れるからです。これから神の礼拝に携わるので汚れたくなかったのです。だから、触るどころか、男から大きく離れて歩いたのです。

こんな事情の中で、イエスは、こともあろうに「汚(けが)れている」とはっきり定義されているらい病の男に触れたのです。

昔子供の頃「エンガチョ」切ったと叫びながら他の子にタッチして逃げて回る鬼ごっこみたいなことをしました。触れられた相手は「エンガチョ」になって、誰か他の子にタッチしないとダメなので追いかけっこが始まる、というなんとも他愛のない遊びでした(結構真剣に逃げまわりました)。

イエスはらい病の男に触ったので、祭司の定義でいけば、イエスが汚れたことになります。イエスは、他にも、ルカの福音書7章で棺桶に入れられた死人に触れたとも書かれています。そこも7章で具体的にもっと説明します。一体本当にイエスが汚(けが)れてしまったのでしょうか?もちろん違います。逆です。イエスの聖さ、愛がイエスから出て、その男に流れて行ったのです。

愛は触れることで表現されたのです。おそらくもう何年も誰もこの男に愛を持って接していなかったでしょう。愛を持って触れられていなかったんです。

NT Wright はこう説明しています。

イエスのきよさ、癒しの力があたかもこの男に伝染したかのようである。寒い日に飲む暖かい飲み物のように、この男の全人格にイエスの愛と恵みがイエスのタッチを通して流れて行ったのである。」 

His cleanness, his healing power, ‘infected’ the man, just as the love and grace of his touch must have gone through his whole personality like a hot drink on a cold day.

“Luke for Everyone” by Tom Wright.

信仰と癒しのつながり

また、見逃しやすい点かも知れませんが、社会から除け者にされていたこの男は確かにわらをもつかみたい一心だったかも知れませんが、驚くべきなのは、イエスに対して「この人なら私を癒してくれる」と信じていたことです。イエスの癒しのわざが信仰と繋がった場面は多く記述されています。(次のセクションもそうです) 確かに病が癒されたのも奇跡ですが、この男がそのような信仰を持っていたこともまた奇跡だと言えるのではないでしょうか。(”The point is that the miracle is rarely the point. There is always something more miraculous hiding behind the miracle. In this particular story, the true miracle is the faith of the diseased man.” By Michael Card, “Luke: The Gospel of Amazement”

屋根からの侵入者 (5:17〜26節)

17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。

20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。

23 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。

ルカの福音書 5:17-26

この記事を読むとある友人がこの箇所についてコメントしたことを思い出します。彼は、自分の信仰がダウンしている時こそ、この記事に出ている友人たちがそうしたように、自分が友人たちによってイエスのもとに連れてきてもらえる、それが励ましなんだ、というようなことでした。

前述の記事でらい病の男の信仰がイエスの癒しの力と結びついたのですが、この場面では、友人達の信仰(もちろん本人の信仰もあったでしょう)と神の癒しの力が繋がったことです。

そんな感動的なストーリーの背景に、ルカはパリサイ人と律法の教師達を登場させます。ルカの福音書ではパリサイ人が出てくるのは初めてですが、他の福音書では、すでにパリサイ人は「マムシのすえ」とか呼ばれてしまっています。なぜ、パリサイ人はわざわざカペナウムのような辺境の町に現れてイエスの言動を監視しているのでしょうか。

それは、彼らは自分たちこそ神への信仰を正しく守り、イスラエルを繁栄に導くことの出来る集団だと思っていたからです。NT Wright はこう説明しています。

「パリサイ人の神の御国の計画は、それまでのユダヤにおける考えや目標に沿っているのです。つまり、ユダヤに与えられた律法、すなわちトーラー、を厳密に厳密を重ね遵守することに尽きる、と考えていたのです。そうすることで、彼らは、神が約束に基づいてイスラエルを弾圧する異教徒に裁きを下し、神の民を開放するようにしてくれる条件を整えられる、と考えていたのです。さらに、中にはもっと過激な考え方を持つ者たちもあり、自分たちこそ法を行うのが務めであり、神の民を解放する革命をスタートさせるにあたっては、暴力も辞さず、という輩たちもいたのです。」”The Pharisees’ kingdom-plan, in line with plenty of earlier Jewish aims and ideals, was to intensify observance of the Jewish law, the Torah. That, they believed, would create the conditions for God to act, as he had promised, to judge the pagans who were oppressing Israel and to liberate his people. In addition, some of the more militant believed that it was their God-given duty to take the law into their own hands, and to use violence to kick-start the process of revolution.”

Tom Wright, “Luke for Everyone”

もちろんイエスの神の御国の計画はそれと正反対でした。しかも民はイエスに流れて行きました。それでパリサイ人は監視と示威活動のためにいつもイエスにつきまとっていたのです。

ルカの福音書は「驚き」の福音書です。人々は「ひどく驚いた」とあります。イエスは驚くべき2つの奇跡をされたのです。まず「友よ、あなたの罪は赦された」と、中風の男の罪を赦されたのです。パリサイ人がそんなことは神にしか出来ない、とぶつぶつ文句を言ったのを受けて、それでは、と言って、中風の男を癒したのです。「どちらがやさしいか」というイエスの質問は、どちらかがやさしい、という意味ではありません。どちらも有り得ない奇跡なのです。神の癒しであり、神の赦しだからです。癒された男も、その癒し・赦しを目撃した者達全て、神を恐れ、驚きを持って神をあがめたのです。

癒しは贖い主のしるしのわざ

今回の2つの癒しのシーンは、さらりと読むと二人の重い病に苦しむものをイエスはその力で癒したナイスな救い主、で終わってしまうかも知れません。確かに、4章でイエスがイザヤ書を礼拝中に読んだ時、これらのことは預言されており、イエスはその通り行っています。しかし、同時に、それだけでは無いことも覚えているでしょうか。イエスの「救い」は困った時に助ける「助け舟」の側面もあります。でも第一義の目的は、神に似せて創造した(Imago Dei)人類一人一人をその元来の姿に回復するという贖いのわざを行う、ということなのです。イエスの側近の弟子達もわかっていません。奇跡の癒しを受け、目撃し、驚き、歓喜しイエスの周りに群れをなして集ってくる当時の人々も全く気付いていません。しかし、イエスは「荒野に退いて祈って」、忠実に十字架への道を歩んでいるのです。