Tim Keller 先生は、2019年10月の先生の母教会でのコンファレンスの折に、「祈りの成長の証し」と題して短くお話しされました。(オリジナルの音源はこちらのリンクからどうぞ。)先日このメッセージを使って教会のスモールグループでディスカッションしました。その時に想ったこと、教わったことを今日はシェアします。

Tim Keller 先生のメッセージやポッドキャストは、Gospel In Life のwebページから自由に聴くことが出来ます。

「信仰生活の中で培われて来た祈り」について先生は語ります。先生は自分の信仰生活を振り返るとそこには、祈りの3つの段階が見られると言います。①祈りの中に育ち、②祈りについてより深く理解し、そして③祈りをますます豊かに実践するようになった、そうです。信仰の成長が祈りの成長と共にあったということでしょう。

祈りには3つに折り重なったポイントがあると先生は言います。その3つのレイヤーは「無力感」、「務め」、そして「愛」だと語ります。 私の祈りも振り返るとそんなレイヤーがあるなぁ、と思います。この3つの点を自分なりに消化してみました。

無力感の中での祈り

神様の前にあって、自分は無力である、と認めるのです。神様はまるで空気のようにどこにでも臨在されています。ですから、神様にこっちに来るな、なんていうことは言えないですよね。また、神様に自分はこんなに 。。。。しているのになんで答えてくれないの、とも言えません。神様はメリット方式で祈りに答えるのではないのですから。

先週のことですが(五月中旬です)自分の信仰に基づいた行動を否定されるような出来事がありました。腹立たしく、苛立たされ、義憤に満ちていたのです。その晩のバイブルスタディーでは詩篇11篇、46篇、91篇を学びました。内容はすんなり頭に入っていましたが、後で分からされたのはその時の御言葉は私の頭に入ったものの、心には届いていなかったのです。私のエゴがブロックになっていたのです。

その学びの次の朝、教会のスタッフの祈り会で、リーダーが、神様に信頼すること、そして神様に自分の道を委ねることを勧めたのです。その瞬間、聖霊が「信頼せよ、委ねよ」と私に語り、私は初めて自分が強く握りしめていたのは、土台だと頼っていたのは自己中心で独りよがりのプライドだったと示されました。昨晩の詩篇11篇が生きた言葉として心に届いたのです。

「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。主は、その聖座に宮があり、主は、その王座が天にある。」

詩篇 11:3-4a

主の聖なる宮を仰ぎ、主の主権・王権を認める以外にない、と諭されたわけです。

務めとしての祈り

ケラー先生は、定期的に、たゆまず、集まって共に祈ることの重要性を説きます。自分の力でなんでも出来るという思い込みを改めるのです。そして、共に祈りを通して神様から自分が造り変えられるようになります。あれもこれも欲しい、というような祈りから、神様に感謝する心を養わされると思います。

ケラー先生は自著「祈り」の中で、CSルイスの言葉を引用し、祈りがコミュニティー、人との集いの中で行われることについてこう語っています。(訳文は私の意訳です)

「そしてもし私たちの目的が神様をもっと深く知りたい、というのであれば、それはコミュニティーの中でこそそれが一番よく達成出来るのです。CSルイスによれば、ある人のことを知ろうと思うなら、その人がいるコミュニティーを通すことが必要だ、と言います。ルイスは、『私個人では一人の人の全体像を描くには足りないものである。私の視点以外に、その方のあらゆる側面を照らす光がもっと必要だからである。』と語ります。”… and if the purpose of it is to know God better, then this can happen best in community. C. S. Lewis argues that it takes a community of people to get to know an individual person. … “By myself I am not large enough to call the whole man into activity; I want other lights than my own to show all his facets.”

“Prayer” Tim Keller, chapter 8

人と集まって祈りあう時、同じイエス様をあがめるのでも、人それぞれの体験や視点があり、それが交わって、ピクセル化していたイエス像がますますくっきりとしてくるのではないでしょうか。これまでそれを何度となく体験しました。祈りを共有することは、あればラッキー、というものではなく、欠かせない務めなんです。

愛のしるしとしての祈り

ケラー先生は、まず神様の臨在をまず求めるべきだと励まします。神様と共に歩む、と言う体験が愛の体験となります。このポイントは自分にとって一番苦労する点かもしれません。なぜかというと、愛は自力で強めるものではないからです。どんなに神学的な知識が増し加わろうと、愛が自然と増える、ということではないからです。現にパウロはまず愛が増し加わることで、知識やものを見極める識別力が強まるように、とピリピの信者へ祈っています。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」

ピリピ1:9-10

旧約聖書を読むと不可解なことが多いです。しかし、歴史に働かれる神は世の苦しみ、悲しみ、非道、暴虐ですらをも働かせ、神がまず初めに祝福としてアブラハムに与えられた約束、「あなたを大いなる国民とする」そして「すべての民族があなたによって祝福される」この約束を守り続け、イエス・キリストにおいて成就され、聖霊の働きによって、今日もイエスに信頼し、導かれるもの達を通して成し遂げて来てくださっているのです。

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」

創世記12:2-3

神様のこの約束は神様の一方的な愛に基づく契約として知られています。

神様の愛は今も変わりません。周囲を見回すと悲しみ、苦しみ、諍いが見えますが、神様は今も生きておられ、私たちと共に歩んでおられます。祈りにおいて神様の愛を体験し、確認し、この世においての歩みが強められるのです。

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

エペソ5:15-17