聖書の中にはストレートで分かりやすいところも、 複雑でよく考えないといけないところや、「 なんだかさっぱり分からない。これは無理だな。」 と思ってしまう箇所もありますね。 色々な人が様々な意見や考えを持つ箇所もあります。 神学的論争になっていることもあります。「あなたは一体どの立場をとってるの?」なんて迫られることもあるでしょう。
クリスチャンに、「イエス様が再びこの地に戻られる」、と言うことをどう考えるか、と尋ねれば、大抵、「そうですね。」と答えるでしょう。しかし、続けて、「いつ帰ってくるか?」という質問には様々な答えが出てきます。これはキリスト教の神学における終末論と言います。 ここではどんな終末論があるかについては触れません。(というか、それは私の知識と能力を超えているので)
ところが、最近、「『 まあいいか。どうせはっきり分からないから。』 と取り組む前に投げ出していませんか?」と諭されたのです。
問題なのは、クリスチャンとして、この終末論については漠然ではなく、はっきりとした姿勢を持たねばならないのだ、と学びました。
そうは言っても、確かに、聖書を正しく解釈しようとたどり着いた見解でさえ、 いくつもの見解があり、 これまで長いキリスト教史において論議が絶えていないのですから 、一般人の私ごときに分かるはずがないだろう、と思います。プリなんとか、ポストなんとか、。。。ウエブで検索すると、こんな単語が並べられています。「前千年王国説、ディスペンセーション主義前千年王国説、患難期中携挙説、無千年王国説、大患難、携挙、などなど」本当に目がクラクラします。終末論を論じる方々に敬服します。
Pete Briscoe 牧師による、ダニエル書の講解シリーズで目からウロコが落ちる、という体験をしました。興味のある方はぜひメッセージを全部ご覧ください。リンクはこちらです。英語ですが分かりやすく語ります。私と家内が集っているスモールグループでこのシリーズから学んでいます。
イエス様に従い、彼のために生きるクリスチャンとしては、終末論についてしっかりとした考えを持って臨まないとダメだ、とブリスコー牧師は言います。彼は、神の御国(Kingdom of God) について考察し、イエスが王であるなら(確かにそうです)王国は王とともにあるのだから、イエスの降誕でまず神の御国が来たと。同時に神の御国はイエスの再臨(将来)で来るのだ、というのです。一体どうとらえるべきでしょうか?
そこで、4つのキーワードです。これさえ把握すれば良いのです。それは「今(now)」「後(later)」「体験する(experience)」「待望する(expect)」です。彼は、”Experience the kingdom now, and expect the kingdom later.”「御国を今体験しつつ来たる後の御国を待ち望む」ことがポイントだと言います。
大事なのは、イエス様が再臨されること、その時に準備が出来ているべきことです。細々としたことにかかずらわず、待ち望みつつ今を生きることです。彼はプリ(前)・ポスト(後)・ア(無)なんとかではなく、プロ(賛同)ミレニアム派だ、とユーモラスに言います。イエスは再臨します。それは間違いありません。イエスは神の御国はあなた方(私たち)と共にある、とおっしゃいます。この王国を聖霊によって体験して生きて行くのです。
では、具体的にはどうすればいいでしょうか?ブリスコー牧師は、
- 神の御国を広げるためにすること。。。神を愛することは「できない、やらない」から「できる、やりたい」に変えられる
- 聖書の教えが「今」することの教えか、「後」に関する教えかを理解して、聖霊によって力づけられること
- 上述の1と2を繰り返す。
「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル人への手紙 12章1節)
これは、イエス様をじっと見つめながら、神様の手の技を認めながら生きる時に可能です。
「信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。」 (ヘブル人への手紙 12章2節)
「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」 (ヘブル人への手紙 12章28節)