「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」 イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼の言うことを聞かなかったのです。 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

ヨハネ 10:1-10

今回の「羊の門」と次回予定の「良き羊飼い」の  I AM は密接に繋がっています。どちらも羊と羊飼いのたとえからご自身を人々に現しておられます。

観察

イスラエルでは羊はおそらくあちこちで飼われていたでしょう。羊は神によって導かれている民を指して聖書に度々出てきます。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

詩篇 100:3

イエスのイスラエルに対する愛はこの聖句でよく分かります。

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

マタイ 9:35-36

復活後のペテロとのやりとりでも羊が出てきます。

イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

ヨハネ 21:15, 16, 17

そしてそのペテロも後に教会に対してこう語りかけています

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ペテロ第一 2:25

集まったもの達にイエスが羊と門番、そして羊飼いのストーリーを語る時、人々はすぐにそのたとえにピンときたことでしょう。

もう一つ大事な背景は、この記事のすぐ前に細かく書かれた生まれつき盲人だった男の目を安息日に癒した事実です。安息日破りを誹謗するパリサイ人に対して、癒された男は、これほどの癒しは神から出たのでなければおかしい、と言い返すのです。

パリサイ人たちには到底イエスが神から出た者だとは思えなかったのです。なぜでしょうか?パリサイ人は、自分達イスラエルの律法の「門番」こそがイスラエル人を神に導く番人だと思っていたのでしょう。彼らは律法をとことんまで守り、民に守らせることこそ門番の役割だと考えていたのです。しかし、実情は救い主イエスを律法破りの神を冒涜するものとして裁いていたのです。彼らには神の声も聞こえず、神の姿も見えていなかったのです。

イエスはそんなパリサイ人に警告を告げました。

「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

考察

この言葉の余韻が響く中、イエスは、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」と語ります。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」とイエスははっきりと宣告します。その言葉を聞いて人々は自分の人生がいかに窮屈で、生き生きと生活できていないことを改めて痛感したことでしょう。

もう何十年も前になりますが、わたしはホームステイ先のホストマザーによってイエスの救いへと導かれました。彼女の祈りのリードに従って自分もイエスに祈りました。そして、「これであなたは救われたわ。」と彼女に言われた時、肩の荷が軽くなった、と感じました。抱えていた罪から、自分を縛っていた罪から解放されたからです。それと同時に、「え、これだけでいいの?」と、つい口に出てしまいました。「そうよ。全てイエスがしてくれたから。」と言われたのです。厳しいしつけのもとで育ち、人に迷惑をかけないように、と生きてきた自分には、自分が何もしなくても救われる、と言うのはピンとこないことでした。しかし、イエスはここで、まさしく、自分を通して生きるだけでいい。自分がいのちの門だと言うのですから。そしてイエスは、自分こそ神の臨在への門であり、救いへつながる入り口だと語ります。そして、その声を羊たち、すなわち民は(わたしは)聞くのだ、といいます。

臆病で、頑固で、目が弱くすぐに道に迷い、一人では戦えない脆弱な羊の性質のような、人間の性質を考え、「わたしが羊の門だ」、というイエスの言葉にどれだけ慰めと喜びを覚えたことでしょうか。

神を見失った、神の声の聞こえない律法主義は救いを与えず、滅びに至ってしまう、とイエスは警告する一方で、自分を信頼し、自分の声を聞き分け、そして自分を通してその人生を生きるなら、その人生はいのちにあふれ、生き生きとした豊かな人生になります。そしてそれは永遠のいのちにつながるのです。

祈り

自分の力に頼ること、善行に人生の意味を求めること、などイエスをないがしろにしてきたことを告白し、赦しを求めましょう。将来の不安、現実の辛さ、過去の悔恨、それらもイエスは、彼を通していのちを与える、と語り、豊かないのちを約束してくれています。イエスを過去・現在・未来の全てにおいて感謝し、主として仰ぎましょう。