11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです。13 それは、彼が雇い人であっても、羊のことを心にかけていないからです。

14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしは、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

ヨハネ 10:11-18

観察

良い牧者と雇人

  • 良い牧者は羊のために命を捨てるが、雇人は自分の命の方が惜しい。なぜなら、雇人は羊のことを心にかけていないからである。(v11, 12)
  • 良い牧者は羊のことを知っており、羊は良い牧者を知っている。(v14)

  • イエスはイスラエルの民を囲いの中にいる羊になぞらえている。そして、囲いの外にいる羊は異邦人を指しており、イエスは異邦人を導く使命も持っている。イエスの十字架によっていのちが全ての者に与えられ、イエスにおいて一つの群れとなる。(v15, 16)

考察

詩篇23篇

良い牧者と聞けば詩篇23が頭に思い浮かぶでしょう。

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

詩篇23篇

実際に羊飼いをしていたダビデがこの詩篇を書いたのです。羊飼いが羊を安全に導き、安らぎをえさせ、そして危険な場所を共に歩んだことを体験から知っていたのです。そして、まさしく主がダビデをその人生の歩みを導いてくれたことを詠んだのです。

リーダーシップ

キリスト教ではリーダーのイエスに見習う、ということでこれまでずっとイエスのようにリードすることが教えられて来ました。それはまずイエスのリードに従い、イエスに仕えることからスタートします。それがサーバント・リーダーシップの根底にあります。

昨今はビジネス界でもサーバントリーダーシップ、という言葉が良く聞かれるようになりました。力で人をコントロールするのではなく、身を低くして、人々に仕えるようにしながらリードするということでしょう。

ニセの羊飼い

残念ながら羊飼いの偽者がいます。「わたしについて来なさい」と呼びかけるのですが、羊の皮を被ったオオカミのようについて来るものに牙を向くのです。

私たちの周辺の文化がその一つです。全ての文化的な要素がオオカミであるのではありませんが、文化が私たちの人生を形成し、価値観を定め、私たちの人生の目的になるように誘惑されるなら、それはオオカミです。例えば、世の中の価値で行けば、お金を儲けて、誰よりも立派になること、それが文化的に認められることであるなら、イエスの教えと異なるのです。

また、自分の「自己」もオオカミになってしまう可能性があります。文化の影響を受けるからです。この世は、自分が「良い気持ち」になることが一番大事だ、と教えます。そのように「自己」自分をリードするなら、それは落とし穴に向かって歩いていくようなものです。私の通う教会の牧師が良くいうのですが、「自分の『心に従って』行ったらどんなに人に迷惑なだけでなく、自分を破滅に導いてしまうか分かったもんじゃない」と警告します。聖霊に導かれることが良い牧者の声を聞いて従う道です。

宗教もオオカミになりえます。「。。。をしないと認められない」とか、「。。。をすれば人徳が高くなります」というキリスト教で言えば律法主義の道でしょう。この宗教というオオカミに従うと、すぐに現れる症状は人を裁く行動や罪の意識に苛まれることです。自分は。。。しているのに、あの人は全くダメだ、とか、ああ自分は何をやってもダメだ、同じ失敗ばかりだ。良い牧者の恵み、愛の福音ではなく、自分の行いによって決定づけられる人生を歩まされてしまいます。良い牧者は「私が十字架にかかったのだ」と招いてくれているのにです。あるいは、「信仰」は何かの結果がないと本物ではない、と考えてしまうことも宗教というオオカミの誘惑です。あれほど祈っているのに自分の財産は豊かにならない。もっと信仰を持たないとダメだ、と考えたりします。良い牧者は「私が来たのはあなた方にいのちを、豊かないのちを与えるためです」と導いてくれているのにです。

エゼキエル34:10-14

そんなニセの牧者に対して、神は旧約聖書でこう語っています。まさにこれはイエスの使命として、イエスが取っている行動です。神様の決意の強さ、羊に対する強い愛を感じませんか?

「10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。」

エゼキエル 34:10-14

十字架の死

そして、良い牧者は「わたしが自分からいのちを捨てるのです。」と語ります。イエスは十字架にかかり私たちの負うべきであった罪を負い、私たちにありえない恵みを与え、罪を赦されたのです。

祈り

  • あなたの周りの牧者のために祈りましょう。現代では、教会のリーダーたち、牧師、神父、宣教師、日曜学校の教師、などが神から使命を受けて牧者として羊を導いています。
  • 偽者の牧者に欺かれないように、真の良い牧者、イエスをますます深く知ることが出来るよう祈り求めましょう。