イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
ヨハネ 8:12
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
ヨハネ 9:1-7
John 9:35-41
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
ヨハネ 9:35-41
「I AM」二つ目は、「わたしは世の光です。」(ヨハネ 8:12)
仮庵の祭り
イエスのこの宣言と、その後の生まれつきの盲人を癒す奇跡をされたのは、ユダヤの仮庵の祭りの時だったと言われています。(ヨハネ 7-9章)
仮庵(かりいお)と言うのはテントのことです。ユダヤの祭りは神様とイスラエルとの関係に深く関わっています。
ユダヤ教の暦は過越の祭り(春)で神様の贖いのわざを讃えることから始まり、7つ目の祭りである、この仮庵(スコテ)の祭りで一年が締めくくられます。
神様の贖いのわざが今ましく成就する、メシアがイスラエルの王ととして君臨してくださる、と言うことを祝う一週間の祭りです。エルサレムの神殿に様々な地方にいるイスラエルの民はこの祭りのために上京しています。エルサレムは人々で溢れかえっています。
祭りに上京してきた者達は皆、祭りの最中に行われる儀礼をわきまえているでしょう。3つの重要な神様とイスラエルに関わる象徴的な儀式があります。ヨハネ伝を読むと、イエスはその3つのシンボルが自分だ、と語っています。
喜びの水汲み
仮庵の祭では、毎日エルサレム神殿へシロアムの池(9章)から黄金の器で水を汲んで運び、いけにえを捧げ、祭壇に水が注がれました。(イザヤ 12:3)
イエスはこの行事の最終日に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ 7:37-39)と大声で言われた、と書かれています。
偉大なる光
毎午後、神殿の女性の中庭では、大いなる燭台が灯される儀式が行われ、神を讃える賛美が捧げられたのです。このあかりは神殿のあらゆる中庭を隅々まで照らすほど、信じられないほどの明るさで輝いていたと言われています。
人々は、旧約聖書の言葉、列王記第一 8:10-11(神のご臨在)やイザヤ 9:2(救いの光)を思い起こしていたでしょう。
祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。
列王記第一 8:10-11
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
イザヤ 9:2
そして、イエスは、人々がこの暗闇を照らすあかりを体験した時、「わたしは世の光です」と宣言したのです。自分こそ神の臨在であり、救いの成就である、と宣言したのです。
安息
祭りの最終日は安息日です。人々は神に感謝を捧げ、礼拝するのです。詩篇92篇を口ずさんだでしょうか。祭りの最後の日は大いなる喜びを表す日で、メシアによる王国の到来を待ち望む日です。
イエスはこの安息日に生まれながらの盲人を癒されたのです。ルカ4章で宣言されたメシアとしてのはたらきでした。
パリサイ人の反応
そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
ヨハネ 8:13
パリサイ人はイエスを受け入れませんでした。
私たちクリスチャンは、ヨハネの福音書の一章を思い出すことでしょう。イエスは光として闇の中に輝いていましたが、イスラエルの民は受け入れなかったのです。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。。。。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
ヨハネ 1:1-5, 9-11
イエスに従うとは?
イエスは彼に従う者は闇を歩まず、いのちの光を持つ、と語ります。一体どう言うことでしょうか?当サイトのヨハネ伝の学び8章では、次のような考察があげられています。(掲載文リンク)
「また、「イエスに従う者」とは、イエスの言葉を信じてそれに従って生きると言う事で、その人物は「命の光を持つ」のだと言われます。光と言うものはその人の視界を照らして、それまで理解できなかった事柄を理解し、自分の位置や歩くべき方向を明らかにしてくれます。また、光は喜びや希望にも例えられます。神の子供とされる時、その人の心には真理と喜びと希望、そして生きる意味が与えられるのです。もし、命を授かってこの世を生きていく人物が神に出会わないままだと、その人は絶望や虚無感、死への恐れ等の暗闇をいつも背景に生きている状態にあります*。神に出会う時、聖霊がその人の人生の光となってくださるので、クリスチャンになる時から「命の光」であられるイエスを体験する事ができるのです。」
ヨハネ伝の学び NihongoBibleStudy.com/john8-2