「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。

トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネによる福音書14:1-6

観察

弟子達は心を騒がせています。つまりあたふたしているのです。そこでイエスが「心を騒がしてはなりません」と教えます。イエスがいく場所には弟子達がいく場所であり、イエスがその備えをしに行く、と語ります。

トマスはイエスに「わかりません」と素直に訴えかけました。そしてイエスは自分が道であり、真理であり、いのちだ、と宣言しました。

考察

弟子達の困惑、混乱はおそらくイエスの直前の言葉によるのでしょう。これまでも機会あるごとにイエスは自分は命を捨てる、と語って来ていますが、ここでついに自分は弟子達と離れ離れになる、とはっきり告げるのです。

「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」

ヨハネ13:33

ペテロはいつも何をするにもまず先に行動していました。良きにつけ悪しきにつけ、彼は弟子達のリーダーだったのです。ペテロ、ヨハネ、そしてヤコブの3人の弟子はイエスにとって大事のある際には一緒にいた弟子達でしたから、ペテロは一番弟子としてイエスに、どこに行くんですか、と尋ねます。きっとイエスは自分には教えてくれるだろう、などと考えていたのでしょうか。しかしイエスは彼にキッパリと「あなたは今はついて来られません」とバッサリと言われてしまいました。でも、「後には」ついて来る、と言われました。

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」

ヨハネ13:36

さらにペテロにとって打撃だったのは、「私は迫害も辞さないです。どうして一緒に行くのがダメなんですか?」と聞いたらイエスに、「あなたは私を知っていることを否む」と預言されてしまったのです。

ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ヨハネ13:37-38

このペテロにはこの言葉の直前にこうイエスは祈り求めているとルカに書かれています。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ルカ22:31-32

イエスが、「後には」ついて来る、と行ったのはイエスのこの祈りが根底にあったのです。ペテロが「後に」イエスの復活を目撃し、聖霊の降臨と働きによって教会のスタートを切ったリーダーとして福音を述べ伝え、「後に」迫害を受け殉教したのです。

このようなペテロとイエスのやりとりを聞いていて、弟子達はすっかり動揺したのです。ついに恐れていたことが現実になって来たのです。イエスがどこかに行ってしまう、それを誰にも止めることが、ペテロにすらできない、と思っていたでしょう。

イエスが私が行く「場所」という言葉を聞いて、トマスが今度は自分が聞いてみようと思ったのでしょう。ユダヤの文化では師匠に(ラビ)弟子はどんどん質問するのです。トマスは、「「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と尋ねました。

するとイエスは自分が「道であり、真理であり、いのちだ」という聖書の大変有名な聖句を宣言します。

トマスは、どうやってイエスのいく場所に辿り着くのかその道を知りたい、という気持ちで尋ねたのでしょうが、イエスは単にどこかに続く道、ではなく、神を知る唯一の道が自分だと語ります。

この聖句はイエスキリスト以外には何物も、何者も神に至る道にはならない、という強い未言葉です。排他的と言えます。この言葉によって、神に至る道筋として、他の宗教、自己啓発、自己研鑽など全てが排斥されるのです。現代文化は「個人の自由」が至高の権利であり、それを否定することはすなわちそれを信じ、大切に思う人その人自身を否定することになる、と謳っています。イエスはそれに真っ向から、自分だけが道だ、と語るのです。この宣言は排他的で狭い了見だ、と良くキリスト教否定の一番の理由として挙げられています。しかし、全天地を創造し、現在も全天地を支えておられるお方のもとに来ることにはなんら妨げはありません。全ての人々がイエスのもとにくることが出来るのです。福音書でイエスが口を酸っぱくして語り、行動してきたのはまさしくそれを伝え、人々が神に立ち帰り、神の約束された恵みにあずかることが出来るためだったのです。

聖書は人生はイエスキリストを信じ、その御言葉を道標に、聖霊に頼って生きる時、豊な人生がイエスから与えられると教えます。

これは聖書に書かれた神の宣言です。ノンネゴ、つまり譲れない一線なのです。イエスはどうかして全ての人が神の元へ来るように、という唯一の道を備えてくださったのです。

祈り

このイエスの言葉は人々を信じる者達と信じない人たちとに分断します。聖霊によって信じない人たちの心の目が開かれ、究極の愛で全ての人々を招いているイエスに心を開くことが出来るよう祈り求めて下さい。