”I AM” との最初の出会い

1986年6月のある晩のことです。留学先のアメリカの教会に連れられて出席するようになってから10ヶ月ほどたった頃です。日曜の夜でした。それまで教会の行事や交わりには興味を持って接していても、福音に対しては拒絶反応をしていましたが、その夜、心に「今を逃したら後はないかも」という気持ちが生まれ、ホストマザーに祈ってもらい、イエスを救い主として受け入れました。

ベッドに入ってもすぐには寝付けず、聖書を読むように導かれ、ヨハネの福音書を読み始めました。私の目に飛び込んで来たのはいくつもの「I am」というイエスの言葉でした。まるでイエスが直接自己紹介してくれているように感じました。あなたが信じた私はこういう者です、と。


新シリーズ:7つの「わたしはある」

日本語 Bible Study のコラムではでこれから12月24日まで、ヨハネの福音書に出てくる、「私は。。。」である、という7つの言葉を紹介していきます。

  • 9月24日 イントロダクション:本投稿「エゴーエイミ」
  • 10月1日  #1「わたしはいのちのパンです」ヨハネ6:35
  • 10月22日 #2「わたしは世の光です」ヨハネ8:12
  • 10月29日 #3「わたしは門です」ヨハネ10:9
  • 11月5日 #4「わたしは良い牧者です」ヨハネ10:11
  • 11月26日 #5「わたしは、よみがえりです。いのちです。」ヨハネ11:25
  • 12月3日 #6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6
  • 12月24日 #7「わたしがまことのぶどうの木です」ヨハネ 15:1

「わたしはある」(原語:エゴーエイミ)の意義

イエスが「わたしは。。。である」と語った言葉を考える時、「わたしはある」という言葉の持つ意義を考える必要があります。中学生の時に英語で”I am ….” という構文を学んだでしょう。I am a studentとか I am a boy とか勉強しました。イエスも I am … と語ったのです。(英語ではなくヘブル語やアラム語という言語でしたが) しかし、student とか boy とか抜きの「I AM」つまり「わたしはある」と宣言した箇所が2ヶ所ヨハネ伝に出てきます。この記事は重要です。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」ヨハネ 8:58-59

当 日本語BibleStudy.com のコラムで、セーラは次のようにこの「エゴーエイミ」について説明しています。この投稿はリンクから読んでみてください

「イスラエル人の間で「神の名前」として知られている名前がいくつかありますが、その中で「わたしはある」と言う名、原語では「エゴーエイミ」と発音される名前があります。これは神御自身が、イスラエルの民に向かって名のられた名前です。 この言葉には、万物の創り主である神が御自身の創られた被造物とは反対に、自らの力で存在しておられると言う意味が込められています。神は何か別の存在の力によって存在し始めた訳でなく、始めも終わりも無く自ら永遠に存在されている偉大な方なのです。その意味が、この「わたしはある」に込められています。この神の名はこのゲッセマネでの出来事よりもっと遥か以前からイスラエルの間で敬われていて、容易く口にする事を誰もが恐れていたものです。」 

「ヨハネ伝を前にして」NihongoBibleStudy.com/iam

出エジプト3章にモーセが神に名前を尋ねるシーンが出てきます。そこで神はこう答えます。

「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」

出エジプト 3:14a

イエスは旧約聖書で神がモーセに告げた名前を自分に使っているのです。それを聞いた者達が石をとって投げようとしました。それはイエスが自分を指して神だ、と言ったのは神を冒涜することに他ならず、そのような者は石で打ち殺さねばならない、と思ったからなのです。

また、ヨハネの18章にもイエスが同じ表現をするところが出てきます。

「イエスが彼らに「それはわたしです」といわれたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」

ヨハネ 18:6

この記事は不思議です。イエスを捕らえに来たユダ、そして兵士たちはイエスが、「わたしです」と言うのを聞くと後ずさりして倒れてしまったのです。イエスの神としての権威がその名前の宣言を通して彼らに伝わったのでしょうか。

イエスはこの後捕らえられ、裁判にかけられ、十字架での死を遂げることになるのです。世俗的に考えるなら捕らえられ処刑される人には何の権威もないのではと考えるでしょう。しかし、イエスの十字架の死は邪悪に対する屈服と敗北ではなく、永遠の勝利です。救いの道がはっきりと開かれたのです。

「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」使徒 2:21
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒 4:12


次回からのイエスの語る、7つの「わたしは」のコラムでは、該当する聖書の箇所で、次のような点を踏まえて学んで、考えていきたいと思っています。

  • 記述されている事柄
  • 当時の者達は何を思っただろうか?(旧約聖書のことを思い出したはず)
  • どういう意味か
  • 何が学びとれるか
  • 自分はどうするべきか
  • 祈り