南アフリカの著名で裕福なビジネスマンがある時ロールスロイス車を購入しました。大変気に入ったので、感謝の手紙を車の販売元に送り、合わせて、この車は何馬力があるのか尋ねました。マニュアルやパンフレットなどには何も馬力について書いてなかったからです。

返信が間も無く届き、何と会社の方針で馬力については公表出来ないということでした。

そこで、このビジネスマンは本社に手紙を出すことにしました。何と言っても大金を出して購入しましたから、持ち主としての知る権利があると思ったからです。ビジネス界では彼の名前は良く知られていましたから、彼には教えてくれるだろうと考えたのです。

すると数日で電報が返事が届きました。そこにはただ一言、「充分なり」とあったそうです。

Chapter 5, “As Kingfishers Catch Fire,” Eugene Peterson から抄訳しました

一体何の方程式だろうと思われるでしょうか?全部(All) + たっぷり(Full) + 何でも(Every) イコール 充分(Adequate)というのは、聖書のピリピ書に出てくる単語から取られた物です。私はロールスロイスを持っていませんしが私には神様がいます。天地全てを創造された神様です。でもしばしば物事が上手く行かなかったり、不幸・不遇を目にする時、私は、神様の力ってどれくらい何だろう、と思ってしまったりします。

きっと神様はそんな時、「充分なり」と答えるのではないか、というのがEugene Peterson の説教のポイントでした。そして、使徒パウロはこの「充分なり」の信仰を持っていたと説明しています。それが分かるのが、ピリピ書4章です。

ピリピ書はパウロがローマの地下牢に入れられていた時に書かれた物だと知られています。鎖で牢番に繋がれ、解放の見込みもなかった中で、彼はこの喜びの書としても知られるピリピ書を書いたのです。その4章に、この3つの単語、「全部」「たっぷり」「何でも」− 英語のALL, FULL, EVERY を訳した物ですが − が出てくるのです。

このALL, FULL, EVERY を指す言葉のところを太字にさせていただきました。

私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも(all things)できるのです。それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。(received in full) エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて(every need)満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

新約聖書 ピリピ書4章10〜20節 太字、英単語添付はブログ筆者による

パウロが培った信仰は「充分なり」の信仰でした。そして Eugene Peterson はそれを「静けき信頼」と呼んでいます。

「長年信仰生活を送った方には大げさではない、信仰の芯があります。自分の置かれている場所をわきまえ、何が一番大切なものかをよく理解してるのです。信仰という新しいいのちを歩むということは、神様が愛する、赦す、導く神様である、と信頼して生きることだと語ります。その方は、神様は充分なりという確信の響きを伴ってこの真実を語るのです。」

前出 ibid, Eugene Peterson

パウロが喜びについて語る時、それは絵空事でも、希望的観測でも、あああったらいいなぁという儚い望みとして語るのではありません。彼は破れた現実。。。牢獄に繋がれ、将来が混沌としている。。そんな中で、神様にある喜びの人生を全うしているのです。それに基づいて彼は喜びについて語っているのです。

Eugene Peterson は3つの単語の出てくる節から、パウロのこの「静けき信頼」そして「充分なり」という信仰を解説しています。

  • 13節:「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも(all things)できるのです。」ここではパウロの確固とした成熟した信仰が見られます。
  • 18節:「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。(received in full)」パウロは満ち足りているのです。
  • 19節:「私の神は、… あなたがたの必要をすべて(every need)満たしてくださいます。」神様が満たすのは自分のニーズだけでは無く、他の者たちにも同様に満たしてくださる、という理解があります。

なんか長年かかるなんて、気の長い話かな、と思われるでしょうね。私もそう感じました。私たちはまだ「静けき信頼」を持ち、「充分なり」と言える信仰に到達していないかもしれません。そこに至るには時間がかかりそうです。だからこそ、今このひと時ひと時が大事なんですね。今私たちができることは、「解決しようが無い問題から目をそらして、行き止まりに感じる人生を何とかもがいて生きることから解放されましょう。新しいものの見方によって自分とは何者か、自分な何を感じているか考えてみましょう。きっと新しい発見があります。神様が自分をどうご覧になっているか知るのです。すると、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と聖書を語る時、何とそれは絵空事やファンタシーとしてでは無く、もっとも現実的で、日常的な真実としてあなたに迫ってくるのです。」(Eugene Peterson, 前出)