アルファ・フィルム・シリーズは2017年にそれまでのニッキーガンベルが講壇から語るスタイルから、二人のプレゼンター、様々なインタビュー、メディア、グラフィックなどを豊富に取り入れた形式になっています。
アルファ・ジャパンではアルファ・フィルム・シリーズの日本語吹き替え版が利用出来ます。すべてのビデオは日本語吹き替えと、英語のキャプションがついていますので、バイリンガルの状況でのご利用が可能です。
ビデオダウンロード、ストリーミングリンク、関連のリソース、グループのトレーニング用の教材はアルファ・ジャパンのウエブサイトで、登録を行うと入手することが出来ます。※フロントページのリンクではアクセス出来ませんのでご留意ください。
第二話:「イエスとは?」のストリーミングのリンクはこちらです。別ウインドウでVimeoプレーヤーが開きます。
以下は私のこれまでのアルファ・フィルム・シリーズ利用の経験からの追加資料です。お役に立てば幸いです。
街頭インタビュー:あなたも答えてみませんか?
「イエスって誰だと思いますか?」
「イエスは死から復活したと思いますか?」
ケーキ?科学と信仰について
ニッキー曰く:
数学的にキリスト教を証明することは出来ません。科学的にも証明出来ません。科学はもちろん重要な分野ですが、科学が答えを出せるのは、聖書の語る分野とは異なる疑問についてなんです。いつ、どうやって、この世が出来たか、という類の質問です。ところが、科学は誰によって、とかなぜ、という質問には答えられません。例えば、ここにケーキがあったとします。私の手製のね。科学者なら、ケーキを調べて、どのようにそれが調理され、いつ頃作られたか推測します。でもこの私だけが誰が作ったか知ってます。どうして作ったかもね。ケーキの創り主だけがその答えを言えるんです。私だけが、「僕が作ったのさ」と言えるんです。私だけが、どうして作ったか言えるんです。
U2のボノ 「神の御子かキチガイかのどっちかさ!」
「イエスが偉大な思考家で、哲学者であった、などと軽くあしらうのはまずいだろう。なぜなら、自分は救い主だと吹聴して回ったんだから。だからこそ十字架に架けられたんだ。自分は神の御子だ、と言ったから十字架につけられたんだ。だから、僕の考えでは、イエスは神の御子であるか、キチガイかのどっちかさ。僕にはどうしても、世界の半分の何百万もの人達が、二千年に渡ってそんなキチガイによって心を動かされ、感銘を受け勇気付けられたとは考えにくいんだ。おかしいよね。俺はイエスは神の御子だと信じてる。」 -Bono
ニッキー 「三つの可能性」CSルイスの言葉
イエスが単なる偉大な宗教の教師以上の方であったと示す証拠はなんでしょうか。 考えてもみてください。三つの可能性しか無いと思います。真実では無い、という可能性。嘘と知りつつこんな発言してるとすれば、彼は詐欺師ですよね。または、真実で無いのは本人は知らないが、実は真実で無いとすれば心底自分は神の御子だと思い込んでた。すると彼は妄想家と言えますよね。狂ってた、と言えます。論理的には、もうあと一つしか可能性はありません。それは、本当だった。真実を語ったんだ、という可能性。
ケンブリッジ大学教授のCSルイス氏は、ナルニア国物語の作者として有名ですが、こんな風に言いました。「単なる人間が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、その人は良き道徳家では無いですね。狂っているか、地獄の悪魔ですね。選択肢は限られています。この方が、まさしく神の御子であった、そして今も生きておられる、と選択するか狂った人物、あるいはもっと非道いやからと選択するか。彼が素晴らしい道徳家であった、というような横柄なナンセンスな考えは捨てましょう。イエスは、そんな見地を持つ余地を与えてくれませんでした。そんなつもりはなかったんです。」 -C.S.ルイス
復活・4つの証拠、そして私たちの応答は?
そして、最後の証拠としては、死を克服した、という点です。イエスの体の蘇りはキリスト教の一番の礎なんです。このことは私たちすべてに関わりがありますよ。なぜなら、誰彼となく、死を迎えるのですから。究極の統計ですね。100パーセント確約です。お葬式では、棺桶が地中に埋められます。疑いの余地なくこれで、最期、と見えます。そうなんでしょうね。
- イエスの体が墓に無いことです。
- イエスが弟子たちに現れたことです。
- 弟子達に起きた変貌です。
- 現在も同じことが続いている。
イエスは、こう宣言します。
「私が来たのはあなた方がいのちを持つためである、すなわち豊かに満ちあふれる人生を。」
実に本当なんです。神様がその姿をイエスにおいて現されたのは。イエスは確かに彼が言った通りのお方です。イエスは本当に死から蘇りました。希望があります。この人生を超えたところにも。今のこの人生にも希望があります。今この時、この人生にイエスと邂逅することにおいていのち、それも満ち満ちたいのちを見出すのです。