*** アルファ・フィルム・シリーズ日本語版について***


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パンデミックの中、皆様のイエス・キリストとの歩みが強められますように。また心を騒がせている方々がアルファコースに集い、共にイエス・キリストにあって心を躍らせる者に造り変えられますように。

彼が世界の歴史のうちで最も有名な人物であることは議論の余地がありません。20億人もの人が彼に信奉している、と言います。それは世界の人口の3分の1です。

歴史上の人物誰よりも、芸術作品として、また文学作品の中に描かれています。最も影響力のある人物ナンバーワンとタイム誌は言います。イエス・キリストとは一体どんな人でしょうか?

 

【街頭インタビュー:イエスって誰?】

「イエスって言ってもねぇ?」
「人だよね。」
「神の御子さ。」
「イエスが存在したとは信じられない。」
「どうしても答えろっていうなら、神だね。」
「それって、イギリスのサッカープロのGabriel Jesus 選手のことかな?(笑)」
「聖書を読んだら、全部信じられるよね。」
「私にとっては彼が全てだわ。」
「うーん。本当言うと、分からないわ。私は宗教的ってわけでもないし、多分救い主か何かだと思うわ。」
「彼はずっと昔にいた、結構格好いいやつだったのよ。みんなにいいアドバイスとかあげてね。でも彼についてのことは、尾ひれが雪だるま式についたと思うわ。」

 

【ニッキー】

私は、結構大人になってからクリスチャンになりました。法廷弁護士の家庭に育ったので、父も母も姉も息子も弁護士資格を持ち、娘も資格を持っています。祖父も義理の祖父も、叔父も弁護士です。 もし猫を飼ってたら、猫ちゃんも弁護士になったでしょうね。

父はユダヤ人でしたが、特にユダヤ教、ということではありませんでした。彼自身はホロコーストは免れましたが彼の家族達の多くはホロコーストで亡くなりました。母も教会には通っていませんでした。父は自分は不可知論者だと言っていました。私はというと、10代の頃は自分は無神論者と宣言していました。議論好きでした。他の人たちを無神論側に引き込もう、ということはありませんでしたが、もし誰かが私をキリスト教に回心させようとしようものなら、食らいついて議論をたっぷりふっかけたものでした。

クリスチャン達はうさんくさかった。大学進学のころには私の周りにはクリスチャン達が何人かいたのですが、私には彼らの笑顔がすごく怪しい、と思えました。大学に進んで、寮仲間の親友のニッキー・リー君に、くれぐれもクリスチャン達に気をつけろ、と注意しました。決して奴らを部屋に入れるな、と言っておいたのですが、なんと、彼はクリスチャン達と出会いを持ってしまいました。手遅れだったんです。

ある日、彼とその当時のガールフレンドで現在の奥さんのシリクの二人が私のところにやって来て、彼らはクリスチャンになった、と言いました。恐ろしかった。こんなに良い人達なのに、何でクリスチャンになっちゃったんだ、と思いました。どうやって彼らを助け出したらいいんだ、と思いました。そうだ、キリスト教のことはあんまり知らないから、まずは詳しく調べてみようと思ったんです。

この古い聖書を見つけてその晩読み始めました。新約聖書のマタイ書から始め、マルコ、ルカ、と読み進み、ヨハネ伝を半分くらい読んだあたりで午前3時で、どうやら居眠りしました。 起きてからまた読み続けました。その日、次の日、そしてそのあくる日と。学生だったので仕事にも行くわけでもないですから。 新約聖書の最後まで読んだ時に、「ああ本当だった、真実だ。」と結論に至りました。

数学的にキリスト教を証明することは出来ません。科学的にも証明出来ません。科学はもちろん重要な分野ですが、科学が答えを出せるのは、聖書の語る分野とは異なる疑問についてなんです。いつ、どうやって、この世が出来たか、という類の質問です。ところが、科学は誰によって、とかなぜ、という質問には答えられません。

例えば、ここにケーキがあったとします。私の手製のね。科学者なら、ケーキを調べて、どのようにそれが調理され、いつ頃作られたか推測します。でもこの私だけが誰が作ったか知ってます。どうして作ったかもね。ケーキの創り主だけがその答えを言えるんです。私だけが、「僕が作ったのさ」と言えるんです。私だけが、どうして作ったか言えるんです。

この宇宙も同じです。この天地の創造主だけが、誰がこの世を創造したか言い表わせるんです。そして、なぜ天地は造られたのか、を。 キリスト教が唱えているのは、創造主が現れた、いうことです。すなわち、人イエスとして、彼を通して、私たちに神の姿を現したのです。

そして、その証拠は科学的証拠ではありませんが、歴史的な証拠です。

私が弁護士業をしていた時、まさにそのような証拠に頼っていたんです。歴史的根拠を陪審員に提示したんです。ある事柄が事実起きた、ということを証拠として示すんです。陪審員達は実際にその場には居合わせなかったからです。評決を出す時はいつでも、それは信仰を持って一歩踏み出すようなものでした。それは証拠に基づいています。証拠がなかったら、私自身もクリスチャンにはなっていませんでした。目をつぶってむやみに従うわけにはいきませんから。

私にとって、イエスを信じるのが信仰の一歩です。それは、きちんとした、歴史的証拠に基づいています。なぜイエスから始めるのでしょうか。神の存在すら信じていないのに、なぜイエスから学ぶのでしょうか? なぜなら、私が神様の存在を信じるようになったのは、イエスを通してだからなんです。イエスの復活が力強く示唆しているのは、この天地には造り主がいるんだ、ということです。そして、私たちは、イエスを通せば、イエスというレンズを通すことによって、この天地を創造された神を見ることができるのです。

【トービーとジェンマ】
ナザレのイエスは2000年前、このエルサレムの町並みを歩いていたそうです。しかし、彼が本当に存在した、という証拠はあるのでしょうか?実際のところ多くあるんです。まともな歴史家であればイエスが存在したことを否定しません。古代ローマ歴史家のタキトゥスもスエトニウスもイエスについて記しています。1世紀の後、ユダヤの歴史家、ヨセフスがイエスが素晴らしいわざを行ったと描写し、そしてさらに彼の十字架の死を書き留め、伝えられている復活について記述しました。
ならば、イエスの存在は新約聖書以外からの証拠があることになります。ただ、ほとんどの証拠というと新約聖書の中に記載されています。ある人はこういうかも知れません。「新約聖書はずっと後になって書かれたんだろう、ってことは、内容が年月を経るに従って変わったのではないとどうして言えるのだ?」と。 実際科学的な分析で分かっているのは、内容に変化がなかった、ということです。これは本文批評(ほんもんひひょう)学によって分かるのです。

【アリスター・マグラス】
(アリスター・マックグラス オックスフォード大学科学・宗教学教授)本文批評学においては現存する数多くの写本を吟味するんです。原本と、最古の写本の時代の間隔を計るのです。基本的に写本が原本の時代に近ければ近いほど、また写本の数が多ければ多いほど原本に改ざんが加わる可能性は低くなります。

新約聖書を、現在大学などで広く取り上げられている古代文献を比べてみましょうか。古代ギリシャ歴史家のヘロドトスとトゥキディデスを取り上げましょう。いずれも紀元前5世紀ごろです。最も古い文献は紀元後900年です。年代の開きは1300年で、しかもたった8冊の写本があるのみです。

古代ローマの歴史家タキトゥスはどうでしょうか。最古の写本と原本との年代は1000年の開きがあります。20冊の写本があります。

また古典のカエサルのガリヤ戦記はというと原本と写本の時代ギャップは950年で、9−10冊の写本があるのみです。

リウィウスの有名なローマ史ですが、900年のギャップが原本と最古の写本との間にあり、20冊の写本があるのみです。

新約聖書となるとだいぶ事情は違います。原本は紀元後40〜100年に書かれ、写本は古いもので西暦130年のものがあります。西暦350年には全巻揃った写本がありました。ギリシャ語での写本は5300本あり、テン翻訳は1万冊あり、9300本のその他の写本があります。

従って、今私達の手元にある新約聖書の正確性、信憑性、完全性について信頼たるものと言えます。聖書において特筆すべきは、原本と写本との年代ギャップの狭さです。記述された出来事と、最初の写本との年代が少ないということです。

これは聖書学者にとっては朗報です。内容の確認が出来やすい状態と言えますから。その他の文献等と比べるとはるかに信頼性が高いと分かるのです。私は一人の学者として、喜びながら、こう言えるのです。聖書と言うこの文献は、信頼に足るもので、しっかりと真剣に捉えるべきものなのだ、と。

【トービーとジェンマ】

本文批評学の権威であるホルト博士はこう結論しています。「新約聖書の本文はその証拠が多岐にわたり、しっかりとしていることから、他の古文書と比べて、類なく、群を抜いています」と。非宗教的な歴史学者でもこれには反論できないでしょう。新約聖書の中、そして外からもイエス様は存在したと証拠があると言えるのですが、次の質問として、それでは彼は何者だったんでしょうか?

彼は真に人間であったと知っています。人間の体を持っていました。飲み食いしましたし、汗もかいた、疲れもしたし、痛みも感じたし愛情、喜び、悲しみ、といった人間の持つ感情も持っていました。家庭に育ち、教育を受けたり、普通の人と同じ経験をしました。仕事を持ち、誘惑を受け、離別の悲しみや苦痛を味わい、苦難を受け、拷問され、死に至った、という経験をしました。

多くの人々は今日、わかりました、彼は人間でしたね、と言います。でもそれだけでしょうと、言います。偉い宗教の先生だったかも知れないけれどそれだけでしょうと。

いや、それ以上の人だった、という者達もいます

U2というバンドのリーダー、ボノ氏は、こう語ります。

「イエスが偉大な思考家で、哲学者であった、などと軽くあしらうのはまずいだろう。なぜなら、自分は救い主だと吹聴して回ったんだから。だからこそ十字架に架けられたんだ。自分は神の御子だ、と言ったから十字架につけられたんだ。だから、僕の考えでは、イエスは神の御子であるか、キチガイかのどっちかさ。僕にはどうしても、世界の半分の何百万もの人達が、二千年に渡ってそんなキチガイによって心を動かされ、感銘を受け勇気付けられたとは考えにくいんだ。おかしいよね。俺はイエスは神の御子だと信じてる。」 -Bono

【ニッキー】

イエスが単なる偉大な宗教の教師以上の方であったと示す証拠はなんでしょうか。

二つの点から検証できます。まず第一はイエスご自身は自分を誰だ、と考えたか、ということです。イエス自身が自分は神でない、といえばそれで議論はおしまいです。しかし、彼が自分は神だ、と言えば別です。それが正しいのかどうかが大事になります。

では、実際のところイエスは自分を何だと言っていますか。最初の証拠は彼の教えが自分に対して向けられている、という事実です。ほとんどの偉大な宗教の教師たちは自分達から目を離れさせるようにしています私ではなく、神を見よ、と。謙遜さの現れであるイエス様は、人々を神へと指し示したのですが、それは彼自身に目を向けさせたのです。私を見よ、私のところに来なさい、と。

生きる意味や目的を探求することについて語りましたが、いろいろな物では満たすことの出来ない飢えのようなものでしたよね。イエスは、「わたしはいのちのパンである。」とおっしゃいました。(ヨハネ6:35)わたしこそ、あなたの霊的な飢えを満たすことが出来る、というのです。中毒、というのは現代社会の大きな問題ですが、イエスは、御子が、つまり、イエスご自身が、あなたを解放したなら、あなたは確かに自由なのである、と言います。

他にも人生にまとわりつく、心配、不安罪の意識、恐れなど。彼は、「疲れ、重荷を負う者よ、わたしのところに来なさい。私が休息を与えます。(マタイ11:28)と言います。また、「わたしを受け入れるものは神を受け入れ、わたしを歓迎するものは神を歓迎するのです」(マタイ10:40)と言います。「わたしを見たものは、神を見たのです。」ヨハネ14:9ゆるし、はキリスト教の中心にある考えです。イエスは人々に、あなたの罪は赦された、と言いました。

誰かがあなたに悪さをしたら、あなたはそれを許せる立場にありますが、誰彼となく、「あなたの罪は赦された」とは言えませんよね。

イエスがそう言った時、律法学者は、「神以外に人を赦せるものか」と言いました。でも、イエスはそう出来る、とおっしゃるのです。実に、イエスがこの世に来たのは、そのいのちを捧げることで、人々にゆるしを与えるためだというのです。

イエスがはっきりと語った言葉の一つに、ヨハネによる福音書の10章30節で、こう言いました。「わたしと、御父は一つである。」と。このような発言は、宗教指導者達には神への冒涜と映りました。自分が神である、と言うのに匹敵します。石打の刑に処されるべき罪でした。人々は石打をしようと、石を手に取りました。

「わたしと御父は一つである。-イエス・キリスト(ヨハネ10章30節)」

すると、イエスは彼らにこう言いました。わたしは御父からの多くの偉大なしるしを示したではないか、そのしるしのうちの、どれに対して、石打をしようというのか、と。彼らは、しるしのせいではない。しかし、お前が神を冒涜したからだ、と言います。たかが人間でありながら、自分を神だというからだ、と。

すべての証拠を検証すればイエスは確かにそのように言い切った、とわかります。とんでもない発言です。このような発言は正しいかどうか確認せねばなりません。

考えてもみてください。三つの可能性しか無いと思います。真実では無い、という可能性。嘘と知りつつこんな発言してるとすれば、彼は詐欺師ですよね。または、真実で無いのは本人は知らないが、実は真実で無いとすれば心底自分は神の御子だと思い込んでた。すると彼は妄想家と言えますよね。狂ってた、と言えます。

論理的には、もうあと一つしか可能性はありません。それは、本当だった。真実を語ったんだ、という可能性。

ケンブリッジ大学教授のCSルイス氏は、ナルニア国物語の作者として有名ですが、こんな風に言いました。

「単なる人間が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、その人は良き道徳家では無いですね。狂っているか、地獄の悪魔ですね。選択肢は限られています。この方が、まさしく神の御子であった、そして今も生きておられる、と選択するか狂った人物、あるいはもっと非道いやからと選択するか。彼が素晴らしい道徳家であった、というような横柄なナンセンスな考えは捨てましょう。イエスは、そんな見地を持つ余地を与えてくれませんでした。そんなつもりはなかったんです。」 -C.S.ルイス

すると、イエスが自分について語ったことは真実だったんでしょうか?彼の言い分が正しい、と支持する証拠にはどんなものがあるでしょうか。

第一の証拠は、彼の教えです。新約聖書の多くは人々が集まり、彼の教えに耳を傾ける場面に費やされています。このような丘の上で、五千人以上もの人が集まり、イエスの教えを聞いていたんです。

山上の垂訓と呼ばれるこの教えは、最も偉大な教えの一つとしてみなされています。イエスの教えは、私たちの文明の基盤になっています。イエスの教えが、今ある法律の基になっているものが多くあります。また、今までになかった、変革をもたらす言葉もあります。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」マルコ12:31

「他の人にしてもらいたいようにあなたもそうしなさい。(ルカ6:31)」

「あなたの敵を愛しなさい。(マタイ5:44)」

事実、私たちの科学や技術はどの分野も進歩してきています。しかし、二千年このかた、イエスの道義的な教えを進歩させたものはいません。イエスの語った言葉は最も素晴らしい言葉なんです。神ならそんな風に語るだろう、というような言葉なんです。

イエスを特徴付けるもう一つの点は、彼が人に見捨てられた者達を愛した、という点です。
飢えた者に食べ物を与え、病む者を癒したんです。クリスチャンではない、という何百万という人達でも、イエスのそんな人格に感銘を受けています。タイム誌は、イエスのことを西欧史上最も変わらず続いている純粋さ、無私無欲さを表す象徴なる方だ、と呼んでいます。

彼の敵ですら何の落ち度も見出せなかったのです。仲間達は彼には罪がなかった、と言いました。私たちの人格の真価は、苦難や苦痛の際に明らかになる、と言われています。イエスは、拷問を受けた時、「父よ、彼らを赦し給え。彼らは自分たちが何をしているのかわかっていないのです。」と言いました。

次の証拠ですが、それは旧約聖書の預言の成就にあります。史上誰も他にあらゆる書物の中にその人生が生まれる以前に描かれている者はいません。旧約聖書の300以上もの預言がイエスにあって成就しました。1日で29の預言が成就したこともありました。

もちろん、人の中には、彼が狡猾なペテン師で、書かれていることを読んで、意図的に人々を欺こうとした、というかもしれませんね。読んだ通りに、実行に移してね。でも、その理論に無理があるのは、第一に預言の数が多すぎる、ということです。そして、人間的に見て、預言の中には自分で操作出来ないものが多くある、ということです。例えば、死に方について具体的に書かれた預言です。葬られる場所について。さらに生まれる場所についてもです。ずる賢いペテン師が、しまった、俺はベツレヘムで生まれるはずだったのか、ていう具合にね。今からじゃ遅すぎる、てね。

そして、最後の証拠としては、死を克服した、という点です。イエスの体の蘇りはキリスト教の一番の礎なんです。このことは私たちすべてに関わりがありますよ。なぜなら、誰彼となく、死を迎えるのですから。究極の統計ですね。100パーセント確約です。お葬式では、棺桶が地中に埋められます。疑いの余地なくこれで、最期、と見えます。そうなんでしょうね。

しかし、もしもイエスが死んで、そして埋葬され、死から命に蘇られたのなら話は違います。そうだとしたら、死は克服されたのです。それともこれは単に希望的観測なんでしょうか?

【街頭インタビュー:イエスは死から復活したと思いますか?】

「死から蘇った、って。そんな風に教わったけど、本当かどうか分からない。」
「はい、私はイエスが死から蘇ったと信じます。」
「科学的に言うと、まあ無理じゃないかな。」
「いや、ははは。」
「絶対無い。イエスが蘇ったなんて。」
「イエスは死から蘇ってないよ。」


「馬鹿げているよ。」
「きっとそれは何かの比喩さ。クスリでラリっちゃうことを指すとか。」
「100パーセント信じてるわ。」
「私はイエス様と関係を持っていること自体が十分な証拠よ。」
「分からない。調べてないし。分からない。」

【ニッキー】

蘇りには4つの証拠があります。

第一にイエスの体が墓に無いことです。誰も、この最初のイースターの日にどうしてイエスの体が墓から無くなったか、きちんと説明できていません。いろいろな説明をつけようと試みた者は多くいます。多分当局側が盗んだのでは、と言います。では、なぜ、信者たちが彼が蘇った、と騒いだ時にその遺体を出してこなかったのでしょうか。盗賊が盗んだのでは、という意見もあります。弟子たちがイエスが現れた、という知らせを聞いた時に彼らは墓に走って行ったんです。墓はすべて空っぽというわけでは無かった。墓の中には、イエスの遺体を巻いていた布が残っていたんです。泥棒にとって唯一価値のありそうなものがまだ墓に残っていたんですね。蝶が抜け出した後のさなぎように、その布はペシャンこになって残されていたのです。頭につけられていた布切れはきちんと畳まれ、別のところに置かれていたんです。それを見て、弟子たちは信じたんです。

第二の証拠はイエスが弟子たちに現れたことです。イエスは11回以上に渡って現れ、時に五百人もの中に現れたのです。幻覚症状だ、という人もいるでしょうね。確かに、幻覚症状は、テンションの高い、神経質で、想像力豊かな人たちに起きることがありますね。あるいは病気だったり、麻薬を使ったりしてたらありえます。しかし、弟子たちの状況には当てはまらないんです。弟子たちは、トマスのように疑い深かったんです。筋金入りの漁師でした。収税人もいたんです。収税人は幻覚なんて見ませんよね。

第三の証拠は、弟子達に起きた変貌です。この弟子達は夢が破れてがっかりしていたんです。彼らのリーダーが死に、失意と嘆きにあったのです。ところが、突然彼らが変わったのです。イエスを見たんだ、彼は生きておられる、と言うんです。周りの皆にそう伝えました。のちに、彼らはすべて殉教しました。十字架刑や拷問、斬首など、彼らの信仰のゆえにです。もし彼らが人を騙そうとしていただけだったら、「いやいや実は嘘だったんだ」と言えば済んだんです。でもそうはしませんでした。なぜなら、彼らはそれが真実だと分かっていたからなんです。彼らを一切合切作り変えたのです。その結果として、類を見ない運動が、全世界に広まることになりました。このような運動は人類の歴史上見られたことのないものでした。

第四の証拠は、現在も同じことが続いている、ということです。現在、世界には23億のクリスチャン人口があると言われています。すべての人種、国民、社会経済層、あらゆる教育の背景を持った人たちです。すべての人が蘇りのイエスについて声を同じくしているのです。

さて、わたしはどうするべきでしょうか。イエスのことをどう扱ったらいいのでしょう。イエスが人でありながら、そのアイデンティティーは神だ、と主張したのは明白です。また、彼の教え、生き様、人格、預言の成就、死からの蘇りを見るとイエスが、気が狂っている、とかペテン師だ、というのは不条理に思えます。論理的でないし、逆に信じがたいです。その反対に、これらのことが強い証拠として支持するのはイエスがご自身について語ったこと、それが真実だということを。

私がこのような証拠を吟味し、新約聖書を読んだ時に、私は、こう結論を出しました。本当なんだ、と。

私はクリスチャンになんかなりたくなかった。クリスチャンになってしまったら人生お先真っ暗だ、と思っていたからです。避けていました。死ぬ間際まで避けていようと思ったんです。でもそれは知的に言って正直なことではなかったんです。そこで、仕方なしにいやいやと、オッケー。分かりました、と認めました。

するとその瞬間、その時のことをはっきりと覚えていますが、頭でわかっていたことが、納得していたことが、心の中に降りてきたんです。イエスと個人的な関係を持つ、という体験をしました。そして、無意識に私が人生の中で探し求めていたものが私の人生に究極的な意味を持たせ、目的をくれたものをそれは、私がそんなところで見つけるなんて夢にも思っていなかった場所でね。でもその瞬間に、イエスが語ったことは真実だ、とわかりました。

イエスは、こう宣言します。

「私が来たのはあなた方がいのちを持つためである、すなわち豊かに満ちあふれる人生を。」

実に本当なんです。神様がその姿をイエスにおいて現されたのは。イエスは確かに彼が言った通りのお方です。イエスは本当に死から蘇りました。希望があります。この人生を超えたところにも。今のこの人生にも希望があります。今この時、この人生にイエスと邂逅することにおいていのち、それも満ち満ちたいのちを見出すのです。