*** アルファ・フィルム・シリーズ日本語版について***
アルファ・フィルム・シリーズはアルファ・ジャパンのウエブサイトから日本語吹き替え版(英語字幕付き)がダウンロードできます!ビデオ、シェアリング用のビデオのリンク、などアルファ開催に必要なリソースはアルファ・ジャパンのウエブサイトでアルファコース主催の登録をすることでアクセスが出来ます。ぜひお試しください。
アルファ・ジャパン
英語版の同様のリソースは以下のウエブサイトからコース主催を登録するとアクセス出来ます。
アルファ・カナダ
アルファ・UK
なお、日本語BibleStudyによる日本語キャプション版についてはこれまで通り、黒田実まで直接ご連絡ください。minoru@nihongobiblestudy.com
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パンデミックの中、皆様のイエス・キリストとの歩みが強められますように。また心を騒がせている方々がアルファコースに集い、共にイエス・キリストにあって心を躍らせる者に造り変えられますように。
【質問】 どうして十字架?街頭インタビュー
「ええっと」
「分かんねえな」
「イエスが死んだから?」
「イエスが。。。。。。。。。。。。。。。ていうか、あたし知らなきゃだめよね。」
「ちょっと早朝からはきつい質問だね。」
「イエスが人を助けるために死んだからよ。」
「俺たちを救うためさ」
「ピラテ総督がイエスがいつも当たりくじひいてるんで、嫉妬したんじゃなかった?それでさ。」
「みんな死ぬんだ。理由はいろいろだろうけど。」
「僕たちの罪のため、だったと思う。」
「民衆と意見が食い違ったから死んだんだわ。」
「たぶんみんなが恐れたからだね。それでさ。」
「彼は自分を犠牲にして十字架についたんじゃなかったかしら?」
「それって、自分の選択したってことよ。」
「イエスは民衆の信心のせいで死んだんだ。」
「本当かどうかは議論の余地ありよ。」
「みんな死ぬのよ。永遠に生きる人なんていないわ。」
【トービーとジェンマ】
十字架はキリスト教信仰のシンボルだね。キリスト教のロゴ、って感じだ。 福音書の約三分の一はイエスの死について書かれているんだ。 新約聖書の残りはどうして彼が死んだかを説明するのに費やされている。イエスがどうして死んだのか分かったのは、彼の死が僕のために何をしてくれたのか、ということを体験した時だった。人生がまるっきり変わったんだ。どうしてイエスが死んだか、っていうと、それは彼があなたを愛しているからなんだ。新約聖書でパウロがこう言っている。
「神の御子が私を愛し、その身を私のために投げ打った。」
【ニッキー】
あなたは愛されています。新約聖書の中核の教えです。この全宇宙の中心のメッセージです。あなたしかこの世に存在しなかったとしてもあなたのためにイエスはいのちを捧げたでしょう。
それほどまでに、個人的なことなんです。それほどまであなたを愛しています。彼のあなたへの愛には条件はありません。心の底からのもので、絶えることがないのです。想像できうる最高の愛なんです。ですから、十字架なんです。あなたへの神様の驚くべき愛です。それを理解したとき、わたしの人生は完全に変わりました。でも、どうしてそれは必要だったのでしょうか。何が問題だったんでしょうか。
あなたは神の似姿に創造されました。あなたは神に愛され、あなたを創造したんです。つまり、あなたは神様の良き作品なんです。誰しもが素晴らしく、高貴で、偉大なものがあるんです。人類は類ない創造力を持ち、音楽、芸術、文学とか、神様はあなたに創造力あるようにしました。なぜなら、あなたは彼の似姿に造られたのですから。自分を犠牲にする、ということも出来るのが人間です。尽くす心とか、親切心を持っています。しかし、確かに私には、コインに裏があるように別の面があるんです。悪事も働けてしまいます。
新聞を開かずとも、この世の中にはあまりに邪悪なことが起きているのはご存知のことですよね。この世は、善人と悪人に分かれている、というように短絡的には言えません。複雑なんです。いろいろ混ざりあっていると思います。愛情、専心、親切心などを持ち合わせている人が悪いことをすることがあります。私も悪事を働いたことがあります。後悔しています。愛している人を傷つけたんですから。
新約聖書にはこう書いてあります。
「人はすべて罪を犯したので、神の栄光を受けることが出来ない。(ローマ3:23)」
【トービーとジェンマ】
罪という単語は宗教上の罪悪感のように思えるけど、豪勢なチョコレートとかアイスクリームとかね、罪深い、っていう言葉も喜びにあふれた、という言葉と同義語に使われたり。アイスクリームの広告で、美味し過ぎて罪深い、なんていうのもあった。でも、聖書の語る罪とはもっと深淵で、僕たちが気づいている以上に自分達に関りがあるんだ。ちょっとした失敗とか、チョコを食べるとかいうことじゃないんだ。僕らがが生まれつき持っている過ちを犯す性質、約束を破ったり、大事な人間関係を壊したり、自分を大事にしないで傷つける、といったことだ。
確かに時々失敗するけど、周りの人と比べると、そんなにひどいとは思わないわと言います。他の人はあたしよりもっとひどいことしてるわ、って。正直なことろ、僕たちは皆、過ちを犯している。パウロは、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と言っている。神の栄誉はイエスにおいて現わされた。イエスのレベルには、僕たちは到底到達出来ないけど。それなら、みんな同じじゃないか。そしたら何だかんだ言う必要はないんじゃない、というかもね。問題は、僕たちの過ちには結果がつきまとう、ということなんだ。罪がどんな影響を与えるかってことは新約聖書に幾通りか書かれている。
環境問題で、汚染が大きな問題であるようにイエスは、あなたの人生を汚染してしまう可能性がある、と言っているんだ。あなたの心をこれが罪のもたらす汚染なんだ。私たちの犯す過ちが生活をダメにする可能性があるわ。罪によってお互いの人間関係をだめにするの。神様との関係を台無しになる。悪いこと、というのはまた病みつきになりがちよね。罪の力が強いからよ。
パウロはこんなこと言っているんだ。なるほどと思うよ。
「私たちはしたいことを出来ず、したくないことをするんです。」
イエスは罪を犯すものは誰でも罪の奴隷である、と言った。例えば、ヘロインを続けて使えば病みつきになっちゃうよね。麻薬だけに常習性があるのではなく、中毒になるといえば例えば癇癪とか、嫉妬心、ごうまんさ自己欺瞞、自己中心、中傷、ふしだらであることとかだね。これが、奴隷になる、とイエスが言った意味だ。人生を破滅させる力のことを語ったんだ。人間の性質には、正義を望む心があると思います。愛と正義は敵対しません。
こどもが性的にいたずらされたと聞いたり、お年寄りが自宅で残忍な襲われ方をした、と聞けばそのような行為をした者たちが捕えられ罰を受けるよう願うわよね。犯した罪には罰が必要だと信じるからなの。でも、他の人の罪だけが罰せられるのではなく、私たちの罪もです。でも他の人のことを考える方が自分たちのことを考えるより簡単ですから。
パウロはこう言います(ローマ2:1)
「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」
私たちの犯す過ちが壁を作り出すんだ。それは僕らが愛する人たちと、例えば家族とか親しい友人とかと喧嘩するのに似ているよね。もうお互い目を見ることもできなくなって二人の間に何か入り込んだみたいになるんだ。僕たちの犯す罪が私たちと神様との間に壁を作り出すのさ。壊れた関係だね。神様との間だけじゃなく、他のあらゆる関係を壊しちゃってる。これが問題です。悪い知らせだね。
どうしたらいいだろう?良い知らせは、神様はあなたを愛している、ということなんだ。彼は、神の御子としてこの地を訪れ、なんとかしようとしたんだ。あなたのために、僕のために、いのちを投げ出した。
【ニッキー】
使徒ペテロはこのように言っています。そして自らが、イエスご自身のことです、私たちの罪を負われました。その身に受けたのです。彼への打ち傷によってあなたがたは癒されたのです。神様が身代わりになった、と言う風に説明されています。どういう意味でしょうか。
1941年7月31日にアウシュビッツ収容所の第14独房塔から警報が鳴り響きました。一人の囚人が脱走したのです。報復として、ゲシュタポは10名の囚人をランダムに選び彼らを餓死監房で餓死刑に処するためでした。9番目に選ばれた男は、フランツェク・ガイオニチェックといい、選ばれると、フランツェクはああ、私の妻、子供たちはなんとあわれなことか、と嘆いたのです。もう私に会うことは無いのだ、と。
その時、一人の背の低い、縁なし眼鏡をかけた男が、帽子を取り、前に進み出て、こう言ったのです。私はカトリック神父です。私には妻も子もありません。その人の代わりに私が死にたいんですが、と言ったのです。皆が驚いたのですが、彼の願いが受け入れられました。その名をマキシミリアン・コルベ、47歳でした。彼は他の9人と共に餓死牢へと連れて行かれたのです。
素晴らしい方で、皆が祈るように導き、讃美歌を歌っていたんです。まるで牢の中は教会であるかのような雰囲気だったそうです。ついに、餓死牢を別の者たちに使わねばならず、1941年8月14日に、彼は致死量の石炭酸注射を受けました。
41年たった後、1982年10月10日、マキシミリアン・コルベ神父の死は正しく評価されることになりました。ローマのサンピエトロ広場で、15万人もの人が集まり、26名の枢機卿と、300名からなる司教・大司教達、フランツェク・ガイオニチェックもそこにいました。ローマ法王は、収容所でのマキシミリアン・コルベ神父の死を次のように描写しました。我らが主イエスキリストによるものと同様の勝利である、と。なぜなら、マキシミリアン・コルベ神父の死は他の人のためにだったからです。他の人の受ける死の身代わりだったからです。身代わりの相手は、フランツェク・ガイオニチェックでした。彼は93歳で亡くなりましたが、その死亡広告をインディペンデント紙でたまたま読みました。彼は、自分の余生を世界中を回りマキシミリアン・コルベ神父が自分にしてくれたことを伝えたのです。彼の身代わりに死んでくれたからでした。
さらにもっと素晴らしい方法で、イエスはあなたの身代わりに、わたしの身代わりにいのちを投げ出したんです。
十字架刑というのは痛みが激しいばかりか、極度に人を辱めるものでした。しかし、不思議にも、新約聖書は十字架刑の肉体的な苦痛や拷問についてはそれほど紙面を割いていません。なぜなら、この世には肉体的に言って、それよりももっと苦痛に満ちたひどい方法で亡くなった方たちがいるからです。現代ですら世界では人々が十字架刑に処せられています。しかしイエスの苦しみは独特のものでした。肉体的苦痛を味わっていただけでなく、感情的な苦痛も、しかも霊的な苦悩を体験していたのです。なぜなら、イエスはその身に私の罪、あなたの罪を背負ったからです。
十字架と復活は二つで一つの出来事のようです。十字架の結果は十字架は美しいダイアモンドの様々な面なのです。一つの面は神様がどんなにまでもあなたを愛しているかを示している面です。罪悪感とは私たちが犯した悪いことに対して悪い、と感じることです。恥とは自分たちのことをひどい、と感じることです。十字架で、イエスはあなたの罪悪や恥を、私の罪悪や恥を取り去ったんです。従って、もはや罪の意識や恥を感じる必要がありません。
なぜなら、あなたは愛されているからです。あなたの価値は、神様が定めるのです。あなたは、神様にとって無限の価値があります。なぜなら、イエスがあなたのために死んだからです。それほどまでに、神様はあなたを愛しています。
もう一つのダイアモンドの面は、愛の本質を示します。愛は感情だけではありません。言葉だけでもありません。行動をともないます。イエスはそれを示したんです。イエスの示した愛は、私たちに彼のいのちを投げ打つものでした。私たちのために犠牲になったんです。
【トービー】
僕の父は2年ほど前に亡くなった。8年ほど認知症を患った後でね。こんな辛いことは今まで家族としてが味わったことがなかった。父は、愛情にあふれたおやじで、秀でた物理学者だったんだけど記憶障害や混乱の霧の中に落ちていくのを目の当たりにした。父は怒り、なんか怖がっていて、見ているのは本当に辛かった。
そんな時期に、僕は、心から、なぜ、なぜ、と疑問が湧いた。どうしてこれがなんで今、親父に、家族に起きてるんだ、って。一体こんなことにどんな目的があるんだろうか、と。神様はなんで親父がこんなめに遭うのを許すんだ。なんで人には苦しみがあるのか?神様が僕たちを愛していながら、痛みがあるのはなぜか。
こういう問いかけは聖書に良く出てくるんだ。詩篇を読むとどうして神様は遠く離れているんだ、という疑問がある。僕も神様は遠くにいると感じたんだ。
それでも疑問を投げかけるのは大切なんだ。クリスチャンであれば疑問を持たない、てことはないから。質問を続けるんだ。イエスも十字架の上で叫んだ。「我が神よ、なぜあなたは私を見捨てたのか。」と。でも、実際、イエスの死、苦しみがあった十字架に僕は、十字架が、完全な答えではないけれど、苦しいところを通りすぎている時に助けになった、と分かった。気づいたことは、神様は遠くにいて、雲の上で楽にしているんじゃない、と理解する助けになった。違う、イエスとなってやってきて、自分自身が苦しみを受け、苦しみを理解しているんだ。そして死んだ。だから、僕たちが体験していることを分かってくれているんだ。苦難を通っている時、彼は苦難の中に一緒にいるんだ。
とうとう私の父は亡くなったけど、ある意味気が楽になったんだ。不思議な平安がずっと自分にあった。それは、イエスの復活に関して聖書を読んでいたからだろうと思う。イエスの復活は死は最後ではない、と示しているから。究極的に、イエスは死を克服したんだ。今は苦しむかもしれないけど、いつか苦しみの無い時が来る。痛みの無い日がね。
【ニッキー】
復活とは、十字架で起きた敗北をひっくり返した、ということではありません。それは、勝利が明らかにされたのです。そこから私たちがわかるのは、悪いことが最終的な結果を左右するんではない、ということです。今苦労しているかもしれません。何かに困難を感じているかもしれませんね。悪が結論を出すのではありません。なぜなら、悪は打ち負かされたからです。十字架でね。
この物語の結末は良いものです。そして、十字架が罪からくる諸問題を解決するのを見ます。十字架を通して、神様と私たちをわけ隔てている壁が取り除かれ、神様のもとに戻ってこられるんですよ!あるローマ法王がこう言いました。「神はキリストにあった。世の中を神との和解に導き、神はキリストにあった。神様は、罪のない第三者、つまりイエスを、十字架の罰を与えたのではないのです。そうだとしたら野蛮です。いいえ。神様ご自身がこの地に現れたのです。御子として。神はキリストにあった。あなたと私を神様と和解させるています。
イエスが語ったたとえ話の中の放蕩息子のようです。家を出て、父を捨てた息子のストーリーです。彼はさまよい出た。やがて家に帰るんです。チャーリー・マキシーによる放蕩息子を描いた彫像が大好きです。
この父の姿、イエスの語った、愛に満ちた父親です。放蕩息子が帰った時、あなたとわたしが帰った時彼は私たちを抱きしめます。抱擁し、口づけし、愛の内に抱きしめるのです。私たちは彼との和解を受けたのです。私たちはこの親密な関係を天の父と持つことが出来るんです。神様と和解すると、分かったことは、私の持つ他の全ての関係において和解をもたらす助けになる、ということです。
【トービーとジェンマ】
イエスが代価を支払ったの。あなたは、無償の贈り物を受け入れるだけでいいの。一つ買うと二つ目はタダ、とかいうのとは違うわ。買わないでも全部無料であげる、ということなの。うますぎる話しで信じられないかもね。
でも、それは、自分の好き勝手に出来る、ということではないわ。何しても許される、と言いながら。事実、それとは正反対よ。罪を犯す理由としてではなく、罪を犯さないようにする動機になるはずよ。
【ダレル・タニングレーの証】
どうして犯罪に手を染めたんだ、ってよく聞かれるんだ。意識的に決めたんじゃない。もちろん職業カウンセラーが、そうね強盗がいいわ、なんていうはずないさ。ただそれがあった、ってだけ。どこにでもあった。
マリファナ、酒から始まった。よくある話さ。よく高価な車をのエンブレムを盗んで他の奴らと交換したんだ。カード交換みたく。それが結局車自体を盗むようになった。そのうち、裏の世界の実力者の奴らと関わるようになった。
ある男の家に行ったんだが、何百ポンドか奴らに借金をしててね、もちろん奴らにはどうってことない金額さ。困ったのはそいつは皆に俺は借金を踏み倒してやる、って言って回ってたんだ。それで奴らはそいつを見せしめにしようってことになった。そいつが家の庭でちっちゃい子供と一緒にいたところを捕まえてそいつを掴んで車に乗せ、俺たちの真ん中に座らせてナイナーズ石切り場ってとこまで行った。
トランクに入れてあった芝刈り機を取り出して、俺にそれが渡されて、「奴の足をやれ」と言われたんだ。足をそれで刈り込むように傷つけろってね。これが俺の入門儀式だったんだ。
ずっとその後いろいろやって、とどのつまりはリーズ市刑事法院、第三法廷で俺は7年半の刑をくらったんだ。その時思ったんだ。ここが勝負どころだ。悪人でいるなら、おれは最高の悪人になろう、って決めた。刑務所をあちこちめぐって警備最厳重刑務所にいれらた。悪さがひどかったからな。
そんな時、ある若造が、同じ囚人仲間だけど、俺のところに来て、「アルファコースに出てみないか」って言うんだ。何言ってんだ、と思った。あっちへ行け。ぶんなぐるぞ、って言ってやった。そいつはしょうこりもなく翌日、クリップボード片手に来て俺は、そいつが殴れるほどの距離にくるまで待って、でも何かそいつは感じ取ったんだろうな。なんかもごもごと言ったんだ。すごい早口で、水曜の午後。コーヒー無料、ビスケット無料、って。
わかったよ。じゃあ水曜にな、と俺は言った。でも俺たちはグループに迷惑ばっかかけた。本当にひどかったと思うよ。話してた内容なんかこれっぽちも聞いてなかったけど、グループのもてなし方が心に届いた。ひどい仕打ちをしても愛情と共感でそれを返して来たんだ。いつでもな。
そんなんで、寝床で、生まれて初めて祈ったんだ。ちゃんと出来てるかどうかは分からなかったが、内容的には、
「神よ、俺から怒りを、暴力を、憎しみを取り去ってくれ。あんたが、俺から中毒を取り除いてくれ。頑張ってやめようとしても一度も上手くいかなかった。もしかなえてくれたら、俺の残りの人生を捧げるよ。」って。
それで翌朝。いつものように寝床でまず一服しようとした。でもなぜか手に触れられなかった。タバコ自体、見ても、においをかいでも、気持ち悪くなった。その時ひと箱かくしもってたが、それを独房の窓から捨てた。捨てたら気分が良くなってきた。少し落ち着きを取り戻したけど、まだ心は動揺していた。自分に落ち着け、と言い聞かせた。顔を洗ってひげをそろうと思った。
鏡の前で自分を見たらぎょっとしたんだ。自分の顔だと分からなかった。鏡に映った相手は微笑んでいるって。単に、微笑というか満面笑顔だぞ、って。見た目が違うだけじゃなくて、気持ちも全然違ったんだ。みんな変わったんだ。まるで頭のてっぺんをこじあけて中身をきれいに冷たい水であらったみたいに、すっきりしてた。
刑務所つきの牧師を呼んで、あらいざらい話した。牧師は、昨日の晩寝床について輩と今朝ここに立っている君とは別人なんです、と言った。君は新しく造られた者になった、と。
たったそれだけさ。もう全てやめた。喧嘩はやめた。ヤクもやらない。なんでもかんでも、足を洗った。俺から借りがあってももうチャラだ。俺から借りたものがあっても、もう返さなくていい。俺にはもういらない。全部オサラバだ。イエスが救ってくれたんだ。
釈放の時がやって来た。出たら、宣教に打ち込みたいと思っていた。マーク・フィンチ牧師は治安判事を務めていましたが、彼はリバプールのロンコーン町に来てみないか、新しく教会を建てているんだ、と誘いました。始めたばかりだが、若者の間では銃や麻薬と言った大きな問題があるんだ。来てくれないか、って。そこに行くべきなんだ、と思いました。それで、釈放された朝、門のところでピックアップされました。彼の家に連れて行ってくれた。家、というかアットホームだった。一番上のお嬢さんはリベカと言った。今の俺の嫁さんだけど。俺たちの二人の子供、ベンジャミンとリディア・グレースの良き母さ。今ほどまでに変えられた、ということはないだろうね。
【ニッキー】
罪の力は、十字架によって打ち壊されたんです。イエスは、「御子があなたを解放したのなら、まさしくあなたは自由なのです。」と言いました。中毒の問題も取り除かれます。私がクリスチャンになる前は、私はひどい癇癪持ちでした。父もそうでした。遺伝したんだ。一生この癇癪は自分につきまとうんだと思ってました。イエスが私を解放してくださった、とわかりました。私の人生の他の点についても変化はありますが、その過程は長く、いろいろ苦労しているところがあります。
神学的な用語を使いますが、義認は瞬間的なものです。神様のみ前に正しい、とみなされるのは瞬時に起こります。十字架によってです。聖化、それはイエスに似たものになって行くという過程を表しますがそれは長く時間がかかる過程なんです。
使徒ヨハネはこう書きました。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」第一ヨハネ1:7
私たちは持続的に許しを受け続けるのです。従って、私たちも引き続き人を赦し続ける必要があります。私にとっては、神様の赦しを体験したことがすべてに勝ることでした。クリスチャンになる前は誰かが私に不快なことをしたなら、ずっとそれを根に持っていました。でも恨みを抱き続けるのはその人を、自分の頭の中に家賃無しで住ませてあげるようなものです。許さないぞ、と心に思い続けたものでした。そうすることはその人に仕返ししてると思ったからです。でも今は違います。仕返しどころか、許さないのは自分にとって害があることだとわかりました。こんなことを聞いたことがあります。赦さないのは、毒を飲んで、その相手が死んでくれるのを望むことのようだ、と。
ひと度神様の赦しを体験したなら、あなたを神様が赦すのだから、まず自分のことを赦さないといけません。それはとても難しいことだと私は思います。でもそうしないといけません。CSルイス氏は赦さないのは自分を神様よりも高い権限を持ったものとしている、と。神様が赦したんですから、あなた自身を自分が赦さねばなりません。他のひとを赦すのは、私たちがあまりに多く赦されているからです。赦すことは意志で行います。選択肢の一つではありませんが。簡単ではありませんが、CSルイス氏曰く、誰もが赦し、は素晴らしい教えだ、と言います。自分がいざそうするとなると大変だ、と。本当に大変なんですが。最初にまず謝ることの出来る人は本当に勇敢だ、というのは本当ですね。最初に赦す人は最も強い人です。最初に忘れることの出来る人は一番の幸せものです。
コーリー・テン・ブームはわたしにとって英雄の一人ですがオランダ人のクリスチャンで、第二次大戦の時にユダヤ人たちをかくまったんです。しかし、捕らえられ、彼女と妹、そして父親はレブンズブルック収容所へと連行されました。彼女の父と、妹のベッツィーはそこで亡くなりました。彼女は驚くべき方です。戦後世界をまわり、神の赦しについて皆に語りました。
ドイツの教会での集会をした時のことです。彼女が語り終えると、一人の男が近づいて来ました。その顔に見覚えがありました。その男は、レブンズブルック収容所の中でも残忍な看守の一人だったんです。心の中にイメージが湧いていました。収容所の頃の彼を。彼女に近づくと、彼はこう言いました。私はレブンズブルックで看守をしていました。彼は彼女を覚えていませんでしたが、彼女はよく覚えていました。収容所時代の彼の姿を、彼の前を裸で走らされたことを思い出したんです。彼女は、心が冷え切っていくように思えました。怒りに満ちました。
彼は、私はキリスト教徒になりました、と言ったのです。私は確かに残忍なことをしました。私の尽くした非道に対して、私は神様から赦しを受けました、と言うんです。私は、神様の恩寵を求め、私の行った非道の被害者のある方にお会いし赦しを乞いたかったのです。
【コーリー・テン・ブーム(回想)】
彼は、「フローレン・テン・ブームさん、神にひとたび赦された身として、あなたは私のことを赦してくださいますか?」と尋ねました。私には彼は赦せませんでした。思い出したんです。私の妹がその男のせいで、弱って死んでいってしまうのを。どうしても赦せませんでした。憎しみだけが湧いてきました。
そして、こう言ったのです。「イエス様、感謝します。あなたが、私に宿る聖霊を通して、神様の愛を私の心の中に送ってくださったことを。」父なる神様。ありがとうございます。あなたの愛は、私の憎しみや赦せない心よりはるかに強いものですから。
そして、その瞬間、私は解放されたんです。そして、彼に、「兄弟。あなたの手を出して、」と手を握ったのです。それはまるで、神様の愛が私の腕を流れて行くように感じました。自分の敵を赦す時ほど、神様の大きな海原のような愛に触れたことがありませんでした。
赦してください。
いいえ。
私には出来ません。
でもイエス様には可能です。
【ニッキー】
この完全なる、限りのない赦しが間違いなく言えますが、結婚生活も、家庭もすべての人間関係、友人関係も全部作り変えてくれます。神様はあなたを愛しています。あなたは愛されているんですよ。神の御子イエスキリストが、ご自身をあなたのために投げ出されたのです。私がそのことを理解した時私の人生はすっかり変えられました。あなたにとっても全ては変わるんです。
「Cross – どうしてイエスは死んだのか-Alpha Film Series 03」への1件のフィードバック
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