*** アルファ・フィルム・シリーズ日本語版について***


アルファ・フィルム・シリーズはアルファ・ジャパンのウエブサイトから日本語吹き替え版(英語字幕付き)がダウンロードできます!ビデオ、シェアリング用のビデオのリンク、などアルファ開催に必要なリソースはアルファ・ジャパンのウエブサイトでアルファコース主催の登録をすることでアクセスが出来ます。ぜひお試しください。

アルファ・ジャパン

英語版の同様のリソースは以下のウエブサイトからコース主催を登録するとアクセス出来ます。
アルファ・カナダ
アルファ・UK

なお、日本語BibleStudyによる日本語キャプション版についてはこれまで通り、黒田実まで直接ご連絡ください。minoru@nihongobiblestudy.com

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パンデミックの中、皆様のイエス・キリストとの歩みが強められますように。また心を騒がせている方々がアルファコースに集い、共にイエス・キリストにあって心を躍らせる者に造り変えられますように。

信仰 とやみくもな盲信は別物さ。信仰 は、ちゃんとした証拠に基づいて踏み出すことなんだ。信仰 は旅路に喩えられるかもしれない。

【ニッキー】

友達として始まった関係が、長年に渡って培われていくのは素晴らしいことですね。

【ピッパ】

わたしがニッキーに最初にあったのはわたしからのアプローチだったのよ。ある時わたしは友達と一緒で、いつも、よく行ってたナイトクラブに行きたかったの。そこは、あたしがティーンのころみんなで夜になると行ってた、フランソワーズっていうところだったの。キングズロードの先にあったわ。かっこよくて、楽しい場所だったわ。でも、そこは会員制だったのよね。その時、ニッキーの親友と一緒だったんだけど彼女が、ニッキーを連れてきたらいいじゃない、って言ったのよ。彼にクラブに入れてもらえるわ、てね。ちょっと図々しかったかもね。でも彼に電話して、「ねえ〜、今夜あたし達をフランソワーズに入れくれないかしら。」彼は、もちろんさ、来たらいいよ、って。今からすると、なんて変なことしたのかしら、思う。確か、ニッキーは大学の二期目にクリスチャンになったそうだけど、あたしは何も知らなかった。

【ニッキー】

次にピッパに会ったのはパーティーだった。私は自分が信仰を持ったことがとても嬉しかった。それで、周りの人に伝えまくった。人がどう思うかなんてまるで考えてなかった。とにかくみんなに知ってもらいたかったんです。それで、次にダンスフロアに来た人に伝えてやろう、と決めていました。ひとしきり当たり障りの無い話から、なんていうのは無駄、と思っていました。それで入って来たピッパに向かっておもむろに、。。。

【ピッパ】

「君はなんてみすぼらしく見えるんだ。イエス様が必要なんだね」、って。言うのよ。あたしは、彼は狂っちゃったんだわ、と思った。

【ニッキー】

その事でしばらく嫌われていたんです。当たり前ですよね。彼女自身もクリスチャンになるまでね。それは全く違う人の導きだったんだけど。僕たちは二人がロマンチックな関係とはちっとも考えていませんでした。僕は彼女の友達であり助言者であり、男友達には気をつけろ、なんてアドバイスしたりね。

【ピッパ】

ニッキーって、安全なタイプの人だったの。賢い友達で。だから、きっとすごく仲良くなれたんだと思う。

【ニッキー】

それがちょっと変わったのは、僕が大学最後の学期を終えた後のパーティーでした。ピッパは他の人に誘われてそのパーティーに来てたんだけど、なんか二人で話し始めて、踊って、そのまま朝6時にはテニスをすることになって、それから、ボートで

【ピッパ】

そうそう、ボートで川下りをしました。

【ニッキー】

そして、僕たちは手をつないだんです。それで、よし、決まりだ。付き合いだしたんだ、って思いました。心の中で何かが変わったんです。新しい人生になったんです。

【ジェンマ】

クリスチャンになることはワクワクする冒険よ。パウロはこう言います。

「クリスチャンになった者たちは新しい人間になった、もう昔とは違います。昔の人生は終わり、新しい人生が始まりました。」 第2コリント5:17

では、クリスチャンであるというのはどういうことかしら。私は神様を信じています、という人もいるわね。時々教会に通いました、という人もいるかしら。でも、それでクリスチャンだ、っていうことではないわ。世界には神様を信じている人は多くいるけど、みんながみんな自分をクリスチャンとは呼んでいないわ。いい人たちだから、あの人たちはクリスチャンっぽい、ということもあるわね。無神論者にもいい人たちはいるわ。でもクリスチャンじゃないので、そうは呼ばれたくないはずよね。クリスチャンの国に生まれたから僕はクリスチャンさ、という人がいるかも知れないけどそれはおかしいわ。生まれた場所がマクドナルドだったとしても、ハンバーガーにはならないわ。クリスチャンとは、クライスト・イン、つまりイエスキリストに従う者をいうの。イエスを通して神様と個人的な関係を持つ人のことね。

【街頭インタビュー:信仰って何だと思いますか?】

「信仰って何って、、、、」
「信頼と心の平安のコンビネーションだと思います。」
「ええっと」
「だめだ。わからない。」
「いい質問ね。」
「信頼」
「僕は教会で堅信礼の儀式はしたよ」
「ちょっとだけ聖公会だから、」
「おばあちゃんとクリスマスとイースターには教会に行ってるよ。」
「見ないで信じること?」
「わたしを信じてるから、彼はきっとインタビューが終わったら、次はお食事に連れていってくれるわ。」
「信仰が宗教と関係があるとは思えないね。」
「信仰をどう表現していいかわからない。」
「自分で見たことのないことを信じることかしら。」
「おかげで一日を乗り切れるとか。」

【トービー】

信仰への道のりは人によってちがう。ある人は、クリスチャンになった瞬間の時と場所を覚えてるね。またある人は、クリスチャンじゃなかったことってないと思う、と言う。さらに、クリスチャンではなかった頃があったけど、今はクリスチャンになっている。でも、いつそれが起きたのかははっきりと言えない。次第に変わった、っていうプロセスだったんだね。重要なのは、今あなたは信じるに至った、そして、今クリスチャンであると分かっていることなんだ。信仰があることを知ることが可能だから。

【ニッキー】

信仰を持っていて、自分がクリスチャンである、というのはどういう意味でしょうか。ヨハネの福音書にこう書いてあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 (ヨハネ1:12) ヨハネが語っているのは、愛の関係でこれほど親密な関係はない、と言っているんです。親子の関係みたいにです。恋人、とか友人、という関係と記されている箇所も他にあります。新約聖書には、夫と妻の関係と表現されているところもあります。そのように密接で親密な関係なんです。結婚されている方々は、自分が結婚しているとしっていますよね。クリスチャンであれば、自分がクリスチャンである、と知ることが出来ます。神様はあなたが確信を持つのを望んでおられます。

ヨハネは、(ヨハネ5:13)にこう書いています。

「 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」

クリスチャンにはこれを知ることが出来ます。そんな関係に入っている、と分かることが出来ます。そして、永遠のいのちを持っている、と知ることが出来ます。この信仰、信頼は何を根拠にしているのでしょうか。証拠に基づいている信仰の一歩です。事実という証拠に基づいていて、感情に基づいているのではありません。
私がピッパと結婚していると知っている証拠は何か、と尋ねたならば、わたしは、婚姻証明書をお見せ出来ます。目に見える私の彼女に対する愛情以上に、これが結婚を証明してくれます。どうして私がクリスチャンであると分かるのか、と尋ねられたならば、私は一つの文書を取ってすなわち、聖書、神様の言葉を指し示します。神様を知っているかどうかは、神様からの約束に基づいています。ローマ人への手紙10:17でパウロはこう書いています。「… 信仰は聞くことから始まり、聞くことは、みことばによるのです。」アルファ・トークを聞いたり、対話の中で、あなたもこれをもう体験していらっしゃるかも知れません。私もそうでした。聖書を読んで、これは本当だ、と確信したんです。信仰が聞くことから来て、聞くことは聖書を読むことから来たのです。聖書は神様と交わりを持つ道なのですが、それについては今後のトークの中で学びます。神のみ言葉を読んで、それを実行に移すことが出来ます。例えば、イエス様のある約束が、黙示録3章20節にこう書かれています。イエス様はこうおっしゃいます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

ラファエル前派の画家、ホルマン・ハントがこれを、「世の光」と題された絵画で現しました。この絵はここロンドンのセント・ポール大聖堂に掲げられています。世の光のイエス様が戸口に立って雑草とツタがからまった戸口で、その戸は人の人生を指し示します。この人は、イエス様を人生の中にお招きしたことがありません。そして、イエス様は戸口に立ち、戸を叩くのです。イエス様は答えを待っているのです。イエス様は入って、その人の人生に関わりたいと考えていますが、すなわち、食事を共にします。食事を共にする、というのは友情の印です。イエス様は彼に人生の戸を開けてくれる人誰にでもこの友情を示したいと願います。ホルマン・ハントに絵の中のしくじりを指摘した人がいたようです。その扉にはドアノブがないんじゃない、とね。ハントは、こう答えました。わざとそうしたんです。もちろんドアノブはありますよ。内側にですがね、と。つまり、私たちの方からドアを開けないといけないんです。イエス様を招き入れるんです。彼は無理やりドアをこじ開けて入ったりしません。選択の自由が与えられているんです。彼を招き入れるかどうかの。彼の約束はこうです。私の声を聞いて、そして扉を開けるなら私は必ず中に入ります。入るかも、ではないです。考えてもいいな、でもなく。間違いないのは、扉を開けて招き入れるなら、必ず中に入っていらっしゃるのです。そして、今も永遠に至るまで、共にいてくださいます。彼の約束、み言葉なんです。
結婚してるって分かる理由は、婚姻証明書ですね、さらに、一つの出来事を指し示すことができます。それは1978年1月7日に起こりました。結婚式です。どうして自分がクリスチャンであると分かるか、と尋ねるなら、同様に、一つの出来事を指し示すことが出来ます。歴史的なね。イエスの死とよみがえりです。

ある人が教えてくれましたが、旧約聖書の箇所を使ってイザヤ書の53章、6節ですが、そこには、「私たちは皆ひつじのようにさまよい出ている」

私に教えてくれた人はこう言ったんです。この手が私と皆さんを表すとします。そして、この本は私たちがこれまでに犯した失敗の全てを表すとします。ひつじのように私たちは、さまよったんです。自分勝手にして。そしてそれが、神様と私たちを分けへだてる障壁になっているんです。イエス様はそれに対し、何一つ罪を犯しませんでした。純潔な人生を送り、常に天の父と完全な関係を維持したんです。イエス様だけが、100パーセント清い生き方をしたのです。イザヤの書がいうのは、私たちは誰もがひつじのようにさまよい、身勝手な方に向かって行ったのです。そして続けて、こう言っています。しかし神である主は、彼の上にすなわち、十字架の上のイエスキリストにです、私たちすべての者の罪・咎を置いた、と書いています。イエス様が十字架でなされたことは、私の罪を負い、みなさんの罪を背負った、ということです。私やみなさんの身代わりとなって。でも、見てください。私たちは今どうなっていますか?解放されたんです。神様と関係を持つことが出来るんです。

【ジェンマ】

私はクリスチャンにはなれないわ、っていう人もいるかしらね。あんまりいい人間じゃない、って言って。そんな色々なことをまず整理つけてからじゃないと、って言うの。でもそんな風にはいかないの。今の自分そのままで進みでるの。何をしているかとか、何を達成したとかは関係ないわ。十字架の上で、イエスがあなたのために何をしたのか、が大事なの。完全な赦しを受けることができるわ。それは贈り物として受けるのよ。

【トービー】

パウロはこう書いた。

ローマ6:23
「罪から来る報酬は死です、しかし、神からの無償の贈り物は主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

僕はただでもらえる、と聞くとそんな嘘だろう、と思うタイプなんだ。なんか裏があるに決まってる、ってね。でも、永遠のいのちは何にも勝る無償の贈り物なんだ。全くただでもらえるんだ。裏には何もない。でも代償はある。イエスのいのちが支払われた。悔い改めて、信仰を持ってこの贈り物を受け取るんだ。悔い改め、っていうのは、心を入れ替えて、悪事から縁を切ることさ。信仰っていうのは、イエスに信頼する、っていうことだね。

【芸術家 エマーソン・ノウォートニー】

子供の頃を思い出すけどキッチンで遊んでたりして、カウンターの上には白い粉があったり、それが何だかはわかってなかったけどね。銃声が聞こえたり、そんな環境で育ってたからきっと当たり前のことになってたんだ。うちは麻薬密売組織に入っていて、そこで育った。マフィアにつながっている家族がいたりね。麻薬はすぐ手に入った。 でもある時、婚約者に死なれたんだ。俺も連邦刑務所に送られる羽目になって、落ちるとこまで落ちた。行き止まりにぶつかった。もう抜け出せなかった。イエスに頼る以外にはね。こんなひどい状態さ。でも神はきっと贖い出してくれると分かっていた。刑務所で行動を改めたんだ。イエスを受け入れるには、自分本人のことを変える必要はなかった。自分が何者か、っていうことを認めたんだ。 そえから、イエスが望む人間に変わっていったんだ。生きる目的、意味、そして希望を見出した。こんなボロボロの俺を拾い上げて美しい芸術作品にしたのさ。俺の人生は贖い出された。贖いのストーリーが展開している。素晴らしい妻が与えられ、息子に恵まれたそして、信仰、希望、愛に満ちたコミュニティーの一員となったんだ。

【ジェンマ】

言ってみれば、みんな信仰を毎日使っているわ。椅子に腰掛けてるんだったら、それも信仰よ。椅子がどうやって誰に作られたか知らないのに、体重を支えてくれるって信じてるでしょ。信仰は信頼することなの。

【トービー】

神がいる、いない、というのは完全には証明できないだろうね。神の存在に対しても、神の非存在に対しても信じるには信仰が必要だね。クリスチャンであるということは、イエスに対して信仰を持っている、ということだよね。人物に信頼する、っていうことさ。

【ニッキー】

婚姻証明書という文書を持っています。結婚式、という出来事もあります。私が結婚していることの証拠がもう一つあります。私は、過去40年間のピッパとの結婚生活の体験を指し示すことができます。私が今日クリスチャンである証拠は、というと何十年にも渡る体験を示せます。それは聖霊から来るものです。あなたの中に宿るイエスの聖霊のことです。風のようだ、とイエス様は聖霊について語ります。風を目で見ることはできないが、間違いなく存在する。風の与える影響と力を見るからです。

【トービー】

ほとんどの人は生まれつき変化を恐れるものだ。クリスチャンになったら、自分の人生はどうなっちゃうんだろう、って考えるよね。でも僕たちの言う変化は良い変化なんだ。パウロによると、しかし、聖霊の実は、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善、忠実、柔和、自制である、と言います。クリスチャンは他の人より優れている、ということじゃないんだ。でも、昔の自分より良くなっているはずなんだ。

 

【ニッキー】

私にとっては、神様の御霊が私の人生に入って下さった時に、私は変えられ始めたのです。神様へ、イエス様への関係の持ち方が変わり始めました。私はスポーツクラブの会員で、スカッシュをする人が多いところですが、ジムもあります。クラブにくる者たちと長年付き合いがあり、友達になってます。タクシー運転手とか足場で働く大工さんたちとか男性ストリッパーともいい友達になったんですよ。お互いにあだ名をつけて呼び合ってるんです。私はニック・ザ・ビック、牧師のぼくちゃん、ってね。つい最近のことですが、その仲間たちの一人と話してたんですが、彼が、お前の教会って、日曜は何人ぐらい来るんだい、って尋ねるんです。私は、そうだな、5000人くらいかな、って答えたんです。そしたら、彼は、ジーザス!って言った。私は、そうさ、彼に会いにくるんだ、と言いました。なんてったってイエス様なのさ、ってね。私はクリスチャンになる前は、彼と同様ジーザス、っていうのは罵声の一つだったんです。しかし、クリスチャンになったとたんに、イエス、という言葉は友達、になったんです。

私の他のクリスチャン達とのかかわり方ですが、クリスチャンになる前はクリスチャン達は気持ち悪い、って思ってました。大学時代に、奴らは、おかゆパーティーをしてたんですよ。どの世界に、おかゆを囲んでパーティーなんてしますか?クリスチャンになったら、御多分にもれず、わたしもおかゆパーティーに行きました。そこで出会った人たちとは友情が生まれ、中には何十年にも渡っての親友になったんです。みんなとの関りですが、今までになかった愛を皆に感じたんです。初めて会う人たちにもです。貧しい暮らしをしてたり、囚人だったり、人への愛情を感じるようになったんです。ですから、私の人生に客観的な変化が起きたことがわかります。さらに、聖霊の与える主観的な体験、ということもあります。パウロは、「聖霊自身が証しをする」と書いています。私たちの魂とともに。私たちは神様の子供だ、と証しをするんです。

【ピッパとニッキー】

あたしたち結婚して何年になるかしら?三十。。。
あててごらんん、ピッパ。覚えてるかい。テストさ。
三十五?じゃなくて、三十七年?あたり?
三十七年ね。
上の子が生まれた時、あたしたちは準備不足だったわ。長男が生まれる、っていうのにね。

ヘンリー、っていう名前です。生まれた瞬間はもう感激の極致でした。信じられないくらいの愛情が満ちて、この子を愛しているんだわ、と思いました。毎晩夜泣きして、こっちがバテてても、愛情は変わりませんでした。必ず寝床から出て、あやしたり、おもりをしました。神様がそんな愛よりももっと深い愛で愛してくれてるなんて、とても大きな愛なんでしょう。私たちの愛情は自己中心で、足りないことがいろんな面でありますが、それでも、私たちには本能的に愛を示す、ということは深い意味をもっていると思うわ。聖書に親と子供を使ったたとえ話が使われているのはすごいことですよね。親が子を愛する以上に神様が私たちを愛している、っていうことを示すことにね。それ以上に神様が私たちを愛しているっていうことは、すごく力強いことなんです。友情、友人関係でも同様なんです。あなたが友人に対して感じる愛情、それもたとえに使われています。イエス様は新約聖書で、「わたしはあなた方を友と呼ぶ。」と言っています。神様は、イエス様はどんな友人たちよりも密接な愛情を示すんです。どんなにも神様はあなたを愛しているか、を示しているんです。神様の友情を示しているんです。良い結婚生活をしているとすれば、その愛情を見て、神様の愛はどんなだろう、と理解することが出来ます。良い親子の関係をもっていらっしゃるなら、親から受ける愛、子供にかける愛とか、他の人の親子関係から推察してもいいんです。自分のでなくともね。とても仲の良い夫婦を見て、すごいなぁ。あんなに愛し合っているなんて。と思ったり。その二人の愛よりも、神様は大きな愛で愛してくれているんだ、ってね。

パウロは言います。「聖霊ご自身が証しするのです、」と。私たちのたましいとともに。私たちは神の子供たちだ、と証しします。あなたは愛されています。それは、親が子供を愛する以上にです。それほどまでに神様はあなたを愛しているんです。そのことをあなたの心の奥深くで、そのたましいに対して証しをして下さいます。伝えるんです。あなたは神様の子供だってね。神様に愛された子供として。深い、個人的な、心の深くで極められる確信です。聖霊の働きによります。

わたしには孫が4人います。孫の話をするのをどうかご容赦下さい。ある人がウインストン・チャーチル卿にこう言ったそうです。私の孫達の話をしましたっけ。チャーチル卿いわく、いいや。でもそれはありがたいこった。、と。なので、孫の話をしますが、あしからず。一番上の孫のアルビー君のことです。2歳のころだと覚えています。親のジョニーとタラは、子供を深く愛しています。孫のアルビーも親を深く愛していました。でも、時々それをもっと身近で感じたい、と思うようなんです。ジョニーがいうには、アルビーが手をこんな風に上にあげて、だっこして、だっこして、パパ、って。ジョニーは抱きかかえ、ハグするんです。その時、身近にいる、と感じるのです。親密さ。愛されている、ハグされている、という体験をするんです。聖霊はそのような働きをするんです。
時には、聖霊はわたしたちのたましいに呼応して、証しをするんです。それで、神様にハグされている、愛されている、と証しをされるのです。神様に抱かれているんです。それが、主観的体験、とお話ししたことです。神様の愛を体験する、ということです。神様はあなたに知ってもらいたいんです。あなたは神様の子供だ、っていうことを。あなたは愛されている、ということを。神様との関係を持っている、ということを。もし、それが確信出来ないのであれば簡単なお祈りを今からしますが、心の中でその祈りを繰り返すことが出来ます。まだそんなのはいやだ、という人もいるでしょうね。あわてなくてもまだ何週間もありますから。しかし、もしお祈りしてみたい、というのであればこれからする短い祈りを心の中で反芻できます。

最初に誤ちを認め、悪事から遠のき、十字架で私たちのために命を投げ出されたことに感謝します。心のドアを開けて、彼を迎え入れるのです。もしお祈りしたいという気持ちがあるかたはひと時こんな風に心の中で繰り返してみて下さい。お祈りをするのですが、イエス様をイメージしてみて下さい。彼は今ここに共にいらっしゃいます。あなたの心のドアの戸口に立って戸を叩いています。招き入れたいということであれば、このように祈ってください。

「主イエス様
わたしをとめどなく愛して下さり感謝します。
人生の中の悪い事柄から離れます。
皆さんの心に浮かぶものがあれば
その過ちにたいしての赦しを願いましょう。願って下さい。
イエス様、感謝します。
あなたが身を投げ打ってくださり、私が赦されました。
解放されました。
あなたからの赦しを受け入れます。
あなたを信頼します。
どうか心の中に入ってください。
あなたの聖霊によって。
共にいつまでも一緒にいてください。
主イエス様、ありがとうございます。
アーメン。」