「素晴らしい人生」と聞くとどう感じますか?絵空事でしょうか。そんなのあり得ないし自分には縁遠いなんて思いますか?バラ色の人生は映画やドラマの中のことで、必死に毎日毎日を生きている自分にとっては逆にうっとおしい気持ちにさせる言葉でしょうか。でも意味のある、目的のある生き方は現代だけでなく、ずっと歴史の中で皆が追い求めていたものでしょう。古代ギリシャ哲学者たちもご多聞にもれず、どうしたら良い人生が送れるかあれこれ考えたのです。

先日教会のスタッフ全員はレトリートに行って来ました。ゲストスピーカーのポール先生の最初の質問が「素晴らしい人生を送りたいと願っていますか?」でした。3回のセッションではパウロのマケドニアの人々への手紙(テサロニケ、ピリピ)から「キリストの福音にふさわしい」生き方について語ってくれました。その中から心に想わされたことをシェアします。

しばしば、苦境にある時は自分の人生がうまく行っていない時で、それをなんとかして苦労のない、つらくない人生に持っていこうと努力しませんか?耐え忍んでいればいつかきっと良い時もあるさ、なんて頑張りたくなります。

しかし、使徒パウロの人生を見ると到底順風満帆ではありません。神に従い歩んだ彼には患難が待ち受けており、幾度も死に直面したのです。福音を遠くに伝え、ローマ皇帝にも伝えようと願っていたにも関わらず逮捕されローマにはきましたが牢獄の暮らしが待っていたのでした。そこからピリピに住む信者たちに書いたのがピリピ書です。1章27節で彼は「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と諭します。

ピリピの町は、ローマ帝国の植民地として異邦の町でありながら、ローマであるかのような特権や税金免除など優遇されていました。「良い暮らし」の出来る土地だったでしょう。パウロはそんな恵まれた環境にあったピリピの信者たちに向かって、「キリストの福音に相応しく」生きるべきだと言うのです。

福音に忠実に生きることは「苦労することも往々にしてある」のではありません。イスラエルの民が神から導き出され、約束の地に入るまで荒野を彷徨いました。ポール先生はこの道のりこそクリスチャンの生き方の縮図であると語りました。歩みは決して楽ではないが、神が共にいてくれて、神の導き、守り、を受け、約束の場所へ向けて進んでいる、という生き方はキリスに救いを受けた私たちが、この世の人生を歩むときにイエスが共にいてくれて、聖霊が私たちを導き、神の御国を目指して一心に歩むのですから。クリスチャンの人生は「イエスの福音が指し示す形」に私たちが造り替えられながら進む生き方です。イエスの福音の形とはまさしくイエスに見習うことです。へり下りも一つでしょう。神をますます信頼することも一つでしょう。

バラ色の人生は約束されていません。しかし天地を造られ、今もその力強い言葉で万物を保っておられる(ヘブル1)イエスが共におり、その御霊によって導いている人生を歩むことができます。教会で様々な方々がこの生き方を実践していることを想いました。とりなしの祈りに心を尽くす方、貧困や苦境にある人たちに実践的な手伝いや食事を提供する方、ぽつりと教会で座っている人に話しかけ歓談する方、彼らはイエスの福音の形に造り替えられ、福音を歩んでいます。使徒パウロの言葉を借りて彼らに祈りを捧げました。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられた義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」

ピリピ書 1:9-11