CSルイス原作のナルニア王国物語 ”The Chronicle of Narnia” はご存知ですか?ルイスはこの作品に数多くの福音のイメージを織り込んでいます。子供向けのストーリーかと思いきや、大人にも多く愛されているのは物語の根底にあるのが神様の壮大なストーリーを思わせ、登場人物達に自分達を重ね合わせられるからでしょう。

家族で映画版を見に行ったことがあります。結構昔です。2005年の映画化で、多分その頃すぐだったと思います。本は読んでましたが、この映画第1作はとても良く出来ていると思いました。

その第1作からイエス・キリストの十字架の死と復活をイメージしたシーンをご紹介します。

アスランの犠牲の死

主人公のライオン、「アスラン」の自分を裏切り者のエドモンドの代わりとなり犠牲になるシーンはイエスが不条理で違法な裁判を受け、民衆から十字架刑を望まれ、刑場のゴルゴダの丘へ向けて十字架を背負い歩む姿を思わせます。邪悪なもの達がアスランを取り囲むシーンは、イエスが歩んだ際にも、人の目には見えない霊の世界では悪霊達が取り巻いていたことを想像させます。

アスランを慕う少女ルーシーとスーザンがそんなアスランの歩みを見守っているのはイエスの母マリア、マグダラのマリア、サロメなどイエスに付き従っていた女性達の眼差しを思わせます。

聖書はこう淡々と書いています。

マルコ15章16−42節
兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである」道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセフの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

すっかり夕方になった。

サンディエゴで四十年以上に渡り牧師を務めたロックリッジ師の有名な復活を祝う説教の名言を借りるなら、「でもまだ金曜なんだ。日曜がやって来るんだ。”… but it’s only Friday – Sunday is a comin'”」

アスランの死体に取りすがっていた少女達も朝靄の中、打ちひしがれて立ち去ろうとします。しかし、その時地響きがしてなんとアスランが生き返っているのです。新しい朝が来たのです。

アスランの復活シーン

イエスの復活の記録は福音書やパウロの書簡に多く書かれています。マタイの福音書には次のように記されています。復活の日曜の朝が来ました。世界の歴史も、私達の人生も完全に変えられたのです。

マタイ28章1節–9節
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

「明け方、大きな地震、近寄って、拝んだ」。。。ルイスはアスランのよみがえりシーンをイエスのよみがえりに重ねているのがわかります。

以前にも紹介しましたが、「復活」というのは自分が上手にパッケージ化したり、巧みに使いこなすことが出来るというようなものではありません。唯一私達に託されているのは、私たちが「復活」に関わり、体験し、その中に生きていくことなんです。(想うこと 「復活の不思議:ワーシップ」を参照のこと)

ぜひ聖書を開き、教会で周りの皆と一緒に復活のイエスに出会いませんか?イエスはあなたに全く予想外の、新鮮なかたちで出会ってくれるはずです。

イースターおめでとうございます!