借りた祈り(番外編)
昨今、身の回りで起こることを網羅して祈るのは大変です。箇条書きにしたらそれこそ本が出来てしまうぐらいではないでしょうか。するとどうしても祈りを励まされるよりも、膨大なニーズに目が行ってしまい心が騒ぐだけで終わることがあります。極端に「神様よろしく!」みたいにちょっと投げやりな祈りになったりもします。
昨今、身の回りで起こることを網羅して祈るのは大変です。箇条書きにしたらそれこそ本が出来てしまうぐらいではないでしょうか。するとどうしても祈りを励まされるよりも、膨大なニーズに目が行ってしまい心が騒ぐだけで終わることがあります。極端に「神様よろしく!」みたいにちょっと投げやりな祈りになったりもします。
この箇所に登場する女たち、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、そしてヤコブの母マリヤは様々な感情を示します。起伏が激しいのでまるで感情がジェットコースターのように上がり下がりするかのようです。私たちもイエスに遭遇すると、特にイエスの復活に対面するとき様々な感情や感覚を体験します。
安息日に具体的にでは何をするのか(しないのか)を決めないと全ては絵空事、机上の法則になります。また具体的な点は自分の通っている状況に合わせられるようなある程度融通の効くものにしたいと考えました。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫びイエスは息を引き取られたのです。これが十字架上のイエスの七つの言葉の最後の言葉でした。
イエスによって救われていることに確信を持てないと、常に自分の気持ちや状況によって信仰がグラグラします。
イザヤ58章の「そのとき(安息日を守るなら)、あなたは主をあなたの喜びとしよう。」という神のことばは意味深いです。神が自分の「喜び」になるということはどんなことを指すのでしょうか。
私たちには神の全てを解き明かすことも、神の動きを理解したり、神を型にはめることなで出来ません。そういうことを見極めようと目を凝らし、固唾を呑んで待つのではないのです。私たちが信仰によって神に目を向けるときには何を望んでいるのでしょうか?今日の箇所からわかるのは、私たちは神のあわれみを乞い願い、いつあわれみが与えられるか待ち望んでいるのです。
イエスに従う者たちの共通の嘆きや悲しみと同時に、イエスを嘲笑い、悪口を言うものたちの姿、そして民衆が傍観している姿が記されています。イエスと共に十字架につけられた犯罪者二人が正反対の態度を示したのがこの世の姿を表しています。
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。(ヨハネ第一 5:2)
安息日という言葉は聖書にしょっちゅう出てきます。イエスも福音書の中で「安息日の主」と自分を指して言っています。クリスチャンとして安息日はどうすればいいのでしょうか?教会に行きさえすれば良いのでしょうか?