Eugene Petersonの講演から想わされたことをシェアする第3弾です。「復活」が現代クリスチャンが「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう(詩篇116篇9節)」とするときにどれほどまでに大切であるか、ピーターソン先生は語りました。今回はその3、「復活の友人達」から想うことを紹介します。過去の2回はリンクを貼っておきますのでご参照ください。
- 第一回 「復活の不思議:ワーシップ」
- 第二回 「復活の食事:聖餐式」
- 第三回 「復活の友人達:洗礼」(この投稿)
私は将棋ファンで、ユーチューブで良くプロ棋士の対局を観戦します。目を見張るような逆転劇が一手によって起こったりするととてもエキサイティングです。また、アマチュアの方が自分の実戦譜を実況解説するチャンネルもあり、そちらもフォローしたりしています。素人がこういうのもなんですが、アマとプロはやっぱり違いますね。新春将棋大会とかでアマ・プロ戦とかやるのを見たことがありますが、プロはさすが、という強さがあります。
私達の生活の上でもプロのお世話になることが多いです。病気になれば専門の医者にかかりますし、会計のトラブルがあれば会計士さんに頼ったりします。専門性が高くなればなるほどその道のプロに頼るわけです。
信仰生活においてはどうでしょうか?自分がなかなか成長していかないと、プロ頼みの信仰生活もアリかな、なんていう感じでしょうか。例えば、お祈りは牧師や信仰の篤い長老に任せきりでしょうか。聖書を読むのは厄介で、わかりにくいので、ユーチューブの解りやすい解説されたものをフンフンと視聴するだけでしょうか。自分には無理だけど、大事なことなんで、やはりその道のプロにお願い、ということになるのでしょうか?
ピーターソン先生は、そんなクリスチャンの行動は、世の中のアイディアに基づいて行動してしまっている、と言います。信仰生活には、信仰の成長には「プロ」など無い、と言うのです。
ピーターソン先生は、イエスの復活によって、私達全てに神様への「開かれたとびら」が与えられた、と説きます。階級も、特権もそこには存在しない、というのです。神様を知る、というのは、トレーニング、自己研鑽、能力開発、霊的に心を揺すぶられる方法を会得する、などからは得られない体験なのです。続けてこう語られています。
「神は抽象概念では無いので我々が理解、把握することの出来るようなもの、では無い。我々が利用出来るような無機質のちからでもありません。自分だけの体験として我々が楽しみにふけるようなものでもありません。イエスの復活を知り、それに応える、ということはすなわち、三位一体の神の働かれるみ前に入る、ということを意味するのです。そして、信仰を同じくする兄弟姉妹と共に、聖霊によってキリストのいのちに預かり、成長していく身となるのです。」
Living the Resurrection y Eugene Peterson
私達はイエスの復活のゆえに、彼のいのちを与えられ、豊かな人生を歩めるのです。それは孤独な自己研鑽や自己実現の歩みではなく、信仰の兄弟姉妹と共に歩むのです。そこには、階級の違いとかプロとかアマチュアとかの差は無いのです。
これは、洗礼において顕著に表されている信仰の歩みだ、とピーターソン先生は語るのです。洗礼では、三位一体の神のみ前に一人として立ちますが、周りには信仰の友達が証人として集まっているのです。その友人達もそれぞれ一人一人、各々聖霊によって歩み、イエスのいのちにあって成長しているのです。洗礼がそのアイデンティティーを確立してくれるのです。
先日のイースター礼拝でも洗礼式がありました。洗礼を受ける者たちが一人一人、会衆の前に立ち、その信仰の証しとキリストを告白します。そして牧師がその告白に基づいて、父・子・聖霊の名において、「あなたはキリストと共に死に、キリストと共に新しいいのちによみがえられたのです!」と宣言し、洗礼を授けました。
ピーターソン先生は、こう説明します。
「聖なる洗礼式において、我々の人生は復活によって定義づけられるのです。我々は次のように確信するのです。我々が生きておられる主イエスを知っていること、そしてそのイエスに知られていることです。さらに、そのことを知っている者として人から知られることになる、という事実を知ることになるのです。」”In holy baptism, our lives are defined by resurrection. We know and are known by knowing and being known by the living Jesus Christ.”
Living the Resurrection by Eugene Peterson
私達の信仰の歩みを確かなものとするのは、「復活」である、とピーターソンは熱く語ります。復活は、人生に不思議と驚きを与え、礼拝へと導きます。イエスに対する畏敬の念を、同時に限りなく親愛の情を覚える礼拝です。復活は日常的な食事を通して教えてくれます。復活の主が司る聖餐式は、イエスが私達を取り、感謝を捧げ、砕き、送り出す、ことを示してくれます。さらに、復活の主のゆえに、私達は一個人として、他の信徒と共に三位一体の神の前に出て、洗礼を受け、自分のアイデンティティーを受けるのです。それは、「プロ」任せの信仰生活ではなく、聖霊に導かれるイエスのいのちを生きる成長の道なのです。
「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう」
詩篇116篇9節