「人はパンだけで生きるのでははく、神の口からでる一つ一つの言葉による。」

マタイ4:4、申命記8:3

この聖句に初めて出会った時、確かに「なるほど」と思えました。まだクリスチャンになって間もない頃、聖書や牧師先生のメッセージなどから神様のことばに触れ出した自分は人生が確かに変わったし、心が生き生きしている自分に気がついていたからです。 なので、魂が「生きる」ためには神様のことばを日頃から「食べる」必要があると理解しました。

最近になって、この聖句を新たな角度から学ばされた事を書きます。

ある大切な人の人生に、無くてはならないと思えるアスペクトが欠けているので、何年も祈ってきているのですが、今もまだその願いは叶えられていません。私の意見では、そのアスペクトは人生の基本と言える、重大なものだと考えてきているものです。それがこの大切な人には与えられていない事が私の心を痛め続けています。

時には神様に怒りをぶつけてしまうか、または逆に冷めてしまうと言うパターンを過去に何度か繰り返してしまっています。だけどそんな状態にあっても最終的には、自分の感情を超えて神様の助けを求める事ができるのは、私の魂の碇となっている十字架があるからです。どんなに神様に対して疑問が生じても、御自身を犠牲にされたほどに私を愛してくださるイエス様の決められる事であるならば、信頼するしかないと言う結論まで聖霊が導いてくださいます。「神様、この心を助けてよ。」と祈ると必ず心の嵐を静めてくださいます。

何かを教えてくださるのは、大抵の場合は心が静まり切ってからで、私の場合はいつも何日か経ってからです(苦笑)。 でも今回そんな時に心に響いたのは、この冒頭の聖句を再び読んだ時です。「パン」は食べ物。食べ物は生きるために必要不可欠です。しかも、この箇所では食べ物としてのパンを指すのみではなく、生きるのに必要なもの全てを総称して「パン」なのだと、聖霊が語ってくださり、ハッとさせられたのです。

人生の重大な事柄、つまり「パン」を求めることは大切です。 でも神様はこの時私に、「パン」よりも大事なものがある。そこにまず視点を向けなさい、と語って下さったのです。つまり、具体的にその人の為にまず何を求めるべきなのかを教えてくださいました。

その人物はクリスチャンなのですが、神様に積極的に近づこうとしている兆しが私には見えにくいものでした。この人にとって、神様のことばをもっと求めるようになる事が、今はもっと必要なのだと気づかされました。私たちの人生を司られる神様が、その時、その時、その人に何が一番重大なのかを見極めておられるのだから、それを信頼する事が私には必要だったのです。

例のアスペクトについてはこれからも祈りますが、神様の手に委ねる事を学びながら、聖霊がその人の心を導いてくださる事にフォーカスを変えていく事になります。 自分がいつか、忍耐を切らせて怒ったり冷めたりせずに祈れるようになれる事を望みます。 私を何度でも迎えに来てくださる神様の忍耐強く寛大な愛が頼りです。