ルカ3章「マムシのすえ達!」

預言者登場

旧約聖書最後の預言者マラキがイスラエルに悔い改めを呼びかけてから数百年立っていました。そこに現れたのがバプテスマのヨハネだったのです。

「マムシのすえ!」の代表者達

「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。(ルカ3章1−2節)」

ルカは時代背景を細かく伝えてくれます。読み進め、学ぶ時にこの詳細を捉える必要があります。さらり、と書いてあるのですが、3章の出だしは重要です。例えば、「田中首相が」とか「ニクソン大統領が」と書いてある書類を目にすると、私の世代は恐らくその当時彼らが関わった出来事を思い出し、その当時の自分の生活も思い出すことでしょう。ルカは当時の民の様子を民ではなくリーダーを名指しすることで紹介したのです。イスラエルは本当にメシアを待ち焦がれていたのです。そこにヨハネが現れたのです。

  • 皇帝テベリオ

初代帝国皇帝アウグストが紀元14年に死んだ後に即位(〜37年)。無慈悲な圧政をしいた。ローマ帝国の武力による「ローマの平和」を推進し、従うもの達には繁栄と安全を約束した。

  • ポンテオ・ピラト総督

ローマ帝国のユダヤ地方を26年〜37年に渡って総督を務めた。イスラエルの風習・慣習・信仰生活を無視した。イスラエルの神殿から金銭を盗み取った。イエスを十字架刑に宣告したことにまつわる記事が福音書に書かれている。

  • ヘロデ国主とその兄弟たち

ローマ統治の元、イスラエルを治める国王は事実上無力であった。ユダヤの民に圧政をしき、権勢と豪奢な生活を送った。イエスから「あの狐」と呼ばれた。

  • 大祭司アンナスとカヤパ

イエスの神の御国の福音に逆らい、特権階級を守ろうと偽善に走っていた。イエスを破滅に導くことに手管を尽くし、ポンテオ・ピラトを操りイエスを十字架刑へと促した。

ヨハネの悔い改めを迫るメッセージはイスラエルに対しての預言者の声と重なるのです。ですから、ヨハネが、「マムシのすえ達!」と叫んだのも当然でした。

バプテスマのヨハネの自己紹介

自己紹介はありませんでした。自分の声ではなく、神から与えられ託されたメッセージを語っていたのです。まさしく預言者でした。ヨハネは「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた(ルカ3章3節)」のでした。そしてルカは、このヨハネが旧約聖書の預言者イザヤによって預言されていたと記しています。

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

ルカ3章4-6節、イザヤ書40:3−5節

荒野の声

イスラエルの民はまさしく荒野にいたのです。自国でありながら、ローマ帝国は力による権勢を及ぼし、ユダヤの王は搾取と権益に心を奪われ、神のみ言葉を取り次ぐ祭司達、そしてそのまとめ役の大祭司アンナスは本来次の大祭司カヤパに代替わりするはずであったのに、その権威から離れられずに実権を握り続けたのでした。そんな中で生活を送るのはあたかも奴隷として生きているようでした。NT Wrightはイスラエルの民は「自由をもたらしてくれる新たな出エジプトを願い求めていた(Luke For Everyone, NT Wright) 」と語ります。この自由への道は、神に立ち返ることからのみ可能であるのです。旧約聖書では預言者は常に「悔い改め」神に立ち返れ、と呼びかけているのです。旧約聖書最後の預言者マラキによると、「わたしのところへ帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。(マラキ書3章7節)」 神への悔い改めの象徴としてバプテスマを受け、正しい行いをせよ、と語り、しかも、彼が道を整えているのはこれから現れる正真正銘のメシア、救い主なのだ、と証をしていたのでした。

「マムシのすえ」って言われても

旧約聖書創世記に出てくる信仰の父と言われるアブラハムと、神様の間で神様は一方的に愛の契約を結んで下さいました。それにより、神様の無償の愛は人類にアブラハムの子孫を通して恵みとして与えらているのです。しかし、このことに安寧し、繰り返し他の神に心を奪われたりして道を外していたのがイスラエルの民の歴史であったことが旧約聖書で分かります。バプテスマのヨハネは、そんな「僕は何をしても大丈夫さ。何たって先祖はアブラハムだから神様は僕の味方さ。」なんて考えて真剣に神様を求めず、不法を行って、当時の文化に流されていたイスラエルの民に向かって、「マムシのすえ」と糾弾したのです。預言者のところへ出かけて行って何か霊的なエキサイトメントを求めていた人々に、ヨハネは「アブラハムのすえ」ではなく、「マムシ(悪の権化とでも言いましょうか)のすえ」だ、と厳しく語ったのです。心を打たれた民は「どうしたらいいのでしょう」と尋ね、公正を行うように諭されたのです。ミカ書の「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6章8節)」の神のお告げを思い出しました。

私達の荒野は?

ヨハネの声は私たちにも同様に鳴り響いています。でも荒野の声は様々な娯楽、気晴らし、注意散漫にさせるメディアなどの大きな雑音に隠されています。イスラエルの民は救い主を待ちわびていましたが、ローマ帝国、ユダヤ王、祭司達の行動、世の中の仕組み、生活の難しさ、こう行ったことでいつしか神様との繋がりが薄れ、囚われの民になっていたのです。バプテスマのヨハネはそんなある意味、信仰上は平穏で安寧にあった民にショックを与え、神に託された悔い改めの言葉を痛烈に浴びせかけ、人々の目を覚させたのです。

Disruptive Witness (平和をかき乱す証し人)の中で、Alan Noble はこう書いています。

「現代の私たちは自分たちと外の世界との間にはバッファーゾーン、バリア地帯があると体験しています。霊的な考えや真理にも私たちはバリア地帯が存在しています。私たちの文化は、私たちにとめどなく気をそぞろにさせてしまうことを次から次へと浴びせてくるのです。それによって深く、心を開いた状態でなぜ自分が存在し、何が真実なのかという問いを掘り下げることが出来ないのです。個人の選ぶ権利とか、細かい自己生活の流れが無数にあるのである一貫として道理のかなった世界観を持ち、身を捧げる、ということが出来ないのです。すると、現代人は宗教や政治について気軽に語ることが可能になるのです。何か自分の立場にかかってくることがないからです。特に何かを犠牲にする、という可能性はほとんどないからです。

“The modern person experiences a buffer between themselves and the world out there—including transcendent ideas and truths. The constant distraction of our culture shields us from the kind of deep, honest reflection needed to ask why we exist and what is true. The value of individual choice and the multiplication of micronarratives shield us from committing to a consistent and coherent worldview. This allows the modern person to debate religion and politics freely, without any anxiety about what is at stake—because very little is at stake.” 」

“Disruptive Witness” Alan Noble

現代の私たちはこんな荒野にいるのです。そこでは、文化からの雑多な、支離滅裂な、しかし心を虜にしてしまう、喧騒が渦巻き、自分は自分、人は人、というような声が飛び交う荒野です。私たちはそんな中で、バプテスマのヨハネが声を荒げて叫んだ、「私よりもさらに力ある方がおいでになります。(ルカ3章16節)」という救い主が現れる、という声を聞き、備えることが出来るでしょうか。