婚礼に出席
前章に(1:43)で、イエスがガリラヤ地方に行こうとされたところで少し話が横道にズレますが、二章に来るとどうやらカナという町で結婚式に招待されていて、それに出向こうとしておられた様です。 カナはイエスの育ったナザレから17Km程離れている町で、イエスの母も招かれていた事から、親戚の結婚式だったのかも知れません。(イエスが幼子だった時にナザレ – マリヤとヨセフの故郷:マタイ1:18 – に引っ越した記事(*)以降で地上でのイエスの父親役だったヨセフの名前が聖書の中に出てこないため、ヨセフは早くに亡くなっている事が推測されています。) とにかくその結婚式に弟子達も招待してもらい、みんなで祝っているシーンから二章が始まります。
*マタイ2:19-23
イエス一行はベタニア地方から徒歩で何日かかけてカナに向かった訳です。 当時、この地方では結婚式は一週間ほどかけての行事でした。この間に客にだす食べ物を切らせてしまう事は、催す側にとっては大恥な事であり、ましてやぶどう酒を切らせてしまう事はもってのほかのタブーだったそうです。 事実この婚礼の場では、途中でぶどう酒が切れてしまいます。 その相談がまずイエスの母マリヤの所に来た様な事柄から、親戚の婚礼だという説が強まります。
マリヤとイエスのやり取り
マリヤは今度それをイエスに相談する事自体、そしてその後に手伝いの人達にイエスの言う通りにする様に指導する事などを考えると、イエスが自身の生い立ちの中で、常に問題を解決する賢さを家族に見せていたり奇跡なども行ってきておられた可能性が浮び上がらないでしょうか。
さて、母マリヤからの依頼を受けられた時のイエスの返事が少し謎ですね。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。 わたしの時はまだ来ていません。」 (4節)
母親に向かって、「あなたはわたしと何の関係があるのか」と言う言葉は確かにとても薄情なものに聞こえます。 しかし、マリヤはそれに傷ついた素振りを見せずに次の言動に移っています。そこからも推測できる事は、ヨハネからの洗礼を節目に神の子としての働きを始められたイエスとは裏腹に、マリヤは「母子モード」を抜け出せていなかったと言う事ではないしょうか。彼女の心と言葉に、「なんとかしてやりなさい。」と言わんばかりの指導性があったのかも知れません。 この「モード変更」には、マリヤはしばらく掛かった可能性もこの様に聖書の中で見受けられます。* マリヤは確かにイエスを神の子だと御使いや預言者たちから知らされていました。** でも、どんな超自然的な経験が過去にあっても、イエスを育てている年月の間に、母子の関係が強く結ばれていっただけに、もう一面のイエスを意識しなくなっていった事も想像できます。 人の親であるなら、その気持ちは充分理解できる人間性ではないでしょうか?
*他:マルコ4:21-31
**ルカ1-2章内
ともかくイエスは、その様に指示しようとしていたマリヤにその事を指摘しているかの様です。イエスが続いて発した「女の方」と言う言葉は原語では女性を呼ぶ時に大いに敬意を含めた呼び方だそうです。それを視野に入れるとやはり、決して冷たく母マリヤを突き放したり見下げたりしていた訳ではない事を察せっする事ができます。
「わたしの時はまだ来ていません。」 イエスキリストは、御自身の「時」に関して話される記事が、福音書の中に何度かでてきます。 その中の多くは、この世に来られた究極的な目的である、十字架、よみがえり、そして昇天を語っておられるものです。 そして、「まだ来ていない」イコール「これから自分の本来の使命の時がくるよ。」というニュアンスであったとすれば、 イエスのマリヤへの返事を日本語風に要約すなら、
「わたしの地上での母親として選ばれた女の方、私とあなたの関係は変化しましたよ。 わたしの神の子としての使命の時が近づいているからです。」
と言う感じの解釈もできるのではないでしょうか。
そんな調子でも、マリヤにはイエスが願いを叶えて下さろうとしている事を察することができたのでしょう。 なので、マリヤに聞こえたイエスの返事は、「さあ、自分の神の子としての働きが始まる。」という感じだった事も考えられます。
水だったのにぶどう酒
感心させられるのは、お手伝いの人達ではありませんか? ぶどう酒が必要なのに、水がめを水で満たすようにとの指示をイエスから受けます。 6節には、60から120リットルの六つの水がめが記されています。 もちろん今の時代の様に蛇口からホースを繋いで満たすのではありません。 何人がかりだったかは解かりませんが、きっと井戸からくみ上げたバケツ一杯の水をもって水がめまで何度も往復したのではないでしょうか? そして今度はその水を世話役のところに持って行くように言われて、その通りにしたこの手伝いさんたちはどんな気持ちだったでしょうか? その様な従順さは余程マリヤに信頼があったか、この時点で既にイエスがただ者ではない存在である事を察していたのかもしれません。
道理には叶わなくても、とにかく言われた通りにした努力に神が報いてくださったので、何も知らない(のん気な)世話役さんがそれを口にした時には、最上級のぶどう酒に変わっていたという事です。
イエスの栄光
「イエスはこの事を最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を表された。そして弟子達はイエスを信じた。」 11節
ここで注意したいのは、イエスが栄光を「受ける」為にこれをなされたのではなく、「現す」為だったと言う事です。 もともと、永遠なる栄光が神の子であるイエスと共にずっとあるわけですが、人となられて地上で暮らしておられる間は、見え隠れしていたと言えます。
弟子達がこの一部始終をみて「イエスを信じた」と書かれていますが、 あれ? その前から信じていたから一緒に居たんじゃないの、と聞きたくなるものです。 でもクリスチャン達もこんな感じじゃないでしょうか? 始めにあった確信も、日々の平凡さで少しづつ薄れてくるものかも知れません。そんな時、神様の働きを目の当たりにすると信仰が再び強められるものではないでしょうか? パッと見た感じではイエスは平凡な人間だったので、弟子達にとって「しるし」と言うものを見せて頂く事は必要だった事でしょう。 そしてこれからも彼らはイエスが多くの奇跡をしるしとして行われるのを目の当たりにする事になります。
適用:
あなたは神様に願いを祈る時、神様から要求されている事が分かれば、例え道理に叶わない場合でも自分側の役割として果たす決心はありますか?