ヨハネ第一の手紙から 5:13-21
イエスによって救われていることに確信を持てないと、常に自分の気持ちや状況によって信仰がグラグラします。
イエスによって救われていることに確信を持てないと、常に自分の気持ちや状況によって信仰がグラグラします。
イザヤ58章の「そのとき(安息日を守るなら)、あなたは主をあなたの喜びとしよう。」という神のことばは意味深いです。神が自分の「喜び」になるということはどんなことを指すのでしょうか。
イエスに従う者たちの共通の嘆きや悲しみと同時に、イエスを嘲笑い、悪口を言うものたちの姿、そして民衆が傍観している姿が記されています。イエスと共に十字架につけられた犯罪者二人が正反対の態度を示したのがこの世の姿を表しています。
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。(ヨハネ第一 5:2)
安息日という言葉は聖書にしょっちゅう出てきます。イエスも福音書の中で「安息日の主」と自分を指して言っています。クリスチャンとして安息日はどうすればいいのでしょうか?教会に行きさえすれば良いのでしょうか?
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいま 続きはこちら
「愛」という漢字はこの箇所に29回出てきます。愛がこの箇所のメインのテーマであることは言うまでもありません。4章の出だしは真理と偽りの霊を見分けることについてヨハネは語りました。そしてここではその試金石は「愛」であると説明しています。この愛についていくつかこの箇所からわかることがあります。
福音を喜んで受け入れる事は、子供たちの方が得意なようですね。主イエスは、いくつになった大人でもその心を見習うようにと言っておられます。
ルカは福音書と使徒の働きを書いたのですが、登場人物が豊富でルカにだけ出てくる人たちも結構います。今日フォーカスをする二人、殺人者バラバもキレネ人シモンもその中に入るでしょう。ルカはこの二人の記事を通して、イエスの身に何が起きたか、どうして起きたのか、それが私たちに何の関係があるのかを語っています。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」現代はどうでしょうか?どうやって見分け、信仰を保つべきでしょうか?