子供デボーション|ヨハネ 1:12
「しかし、この方をうけ入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされるとっけんをおあたえになった。」ヨハネ 1:12
「しかし、この方をうけ入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされるとっけんをおあたえになった。」ヨハネ 1:12
今回の箇所ではさらに具体的にシェアリングについて書かれています。初代は初代、当時と現代は違う、というように考えるべきでしょうか?あるいは古き良き時代のやり方に戻るべきでしょうか? 教会は、共有する=共産主義的に進んでいくべきでしょうか?
今回の箇所では「喜び」について垣間見ることが出来ます。喜びとは、すべて順風満帆だから嬉しい、という気持ちではありません。福音を人生の中心に据えて神がどんな苦境を通してでもその福音を伝えて広げてくださるという揺るがない平安を与えるのが神の喜びです。
イエスさまのでしのピリポは、友だちのナタナエルをイエスさまのところにつれて来ました。イエスさまはナタナエルを見て、「この人のうちにいつわり(うそ)はありません。」と言われました。
あなたや教会は今日迫害に脅かされているでしょうか?もちろん迫害に遭遇しているでしょう。イエスを信じることを告白することはすなわちこの世にノーと言っていることです。この世の流れや風習、他宗教や様々な教えが蔓延しています。日本や北米では信仰の故に牢屋に入れられることはすぐにはないでしょう。しかし信仰のゆえに誤解を受けたり、行動を規制されたり、法律にはむかわねばならないことがあるでしょう
「喜びを持って」祈ることはこのピリピ書の根底を流れる喜びに通ずるものがあります。パウロが喜びを持って祈れるのには二つの理由があります。
私たちはみんな、自分の考えや思いをことばであらわします。イエス様がこの世で教えておられた間に話されたことばはすべて父なる神さまの心を語られたのです。「神のことば」と言ういみで、ヨハネはイエスさまの事を「ことば」とよんだのです。イエスさまが語られたことばは、私たちの心を神さまにむける事をたすけてくださいます。
神は人の歴史にあって働かれます。その人生において、神に従い、聖霊に導かれる信仰の姿が使徒の働きの書にはっきりと見られるのです。
ピリピはローマ植民地であり、商業、通商の中心地として重要な拠点でした。ローマ兵たちが退役後移住していたこともあり、ローマ文化が根付いていました。さらに共通語も当時よく使われていたギリシャ語ではなくローマと同じくラテン語が用いられるなど、どこをとってもローマっぽい都市として誇っていたようです。当然ローマ皇帝を神と崇めることが要求されていたのです。
父なる神様、あなたは人の知識と思いを遥かに超えた形で私の日常に関わって下さるお方で す。私が状況に追い詰められてあなたのところに来る時、それは私を希望に導くものだと確信 します。私が自分の心を捕らえている願いや必要、心配事などを、信じる心であなたの前に祈 る時あなたは私をあなたとの暖かな交わりに導いてくださり、私の心を今の状況を超えた高き ところに据えてくださいます。あなたのことばである聖書を日々開き、あなたに付き従う中 で、私はあなたから慰めと平安を受け、知恵と力を与えられ、私の手のわざにも、あなたが喜 ばれる達成と成功をも与えて下さいます。私はこの事を踏まえ、ここに祈ります。