ピリピ |07 そういうわけですから 2:12-18
聖書に「そういうわけですから」と書いてある時は必ずこれが何を指すのかに注意しなければなりません。ここではパウロはキリストの従順(2:8)を指しています。「キリストに倣うべきです、ですから」と説明をします。
聖書に「そういうわけですから」と書いてある時は必ずこれが何を指すのかに注意しなければなりません。ここではパウロはキリストの従順(2:8)を指しています。「キリストに倣うべきです、ですから」と説明をします。
「すべてのものは、この方によってつくられた。つくられたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ヨハネ 1:3
使徒の4章では教会は全ての信徒が心も思いも一つにしていたと書かれています。そして誰一人として物質的に困窮していなかったとあります。今回の箇所はそのような教会の姿に痛みがあることが分かります。人の身体が成長する過程で出てくる成長痛のようなものですが、放っておくと大問題に膨れ上がります。今回の箇所ではどんな問題が発生していて、リーダーたちはそれをどのように認識し、解決していくかが書かれた箇所です。
先週、CAチャーチで開催していた十週間のアルファコースが終了しました。ラストの夜はセレブレーションナイトとして、「教会」についてのライブトーク、様々なエリアで活躍したボランティアたちを紹介し、ゲストの方々がアルファ体験談を自由にシェアする時間でした。アルファは終点ではありません。信仰の歩みの出発点、ゲートのようなものです。これまでは「個」であった人が、アルファでつながりを持ち、「友」や「兄弟姉妹」というリレーションシップを作りました。
今回の箇所はあまりにも有名な箇所です。様々な神学的な要素、解釈、教えが広まっているので、知らない方はいないのではないでしょうか。今回の学びでは、しかし、ピリピの教会が福音を伝えること、そこからの敵対する力、内部の摩擦についてパウロが言いたかったことにフォーカスを当てます。イエスを模範として描いているのです。それこそが、福音にふさわしい態度ですから。
せんれいをうけられるイエスさま:バプテスマのヨハネのところに多くの人たちが「心をまっすぐにしたい。神さまがよろこんでくださる人になりたい」と言う気もちでせんれいをうけに来ていました。大人になったイエスさまもまた、ヨハネのところに来ました。
使徒4章から記され始めた、福音の宣教は、迫害の中、さらに前進し広がり続けて行きます。迫害の中に神は常に共にいます。神は大地を揺り動かしたり(4:1)、ペテロに聖霊による洞察力を与えたり(5:1-11)、今回の箇所のように牢獄から解放されたり(5:12-16)、福音宣教の敵対者であるユダヤ人の指導者たちの中にガマリエルのような人物を通して仲介(5:17-41)します。結果として、やはり宣教は続いて行きます。(5:42)
前回パウロが自分の境遇を福音の前進に照らし合わせて語ったのに対し、27節からの今回のセクションではパウロはピリピにいる信徒の現状をひいて語ります。ズバリ、「キリストの福音にふさわしく生活すること」こそがピリピ信徒たちの唯一の鍵だと言うのです。「ただ一つ」という言葉は「何があろうと」とか「とりわけ」いう意味です。この箇所でパウロが強調しているのは「一致」です。今回の箇所、そして次の二つのセクション(2:5-11, 2:12-18)でもキリストに倣うものとして、そしてイスラエルを反面教師として取り上げ、一致を促します。
「バプテスマのヨハネ」とよばれている人がいました。この人は人々に、イエスさまがもうすぐ神さまのことを教えに来られることをつたえていました。バプテスマのヨハネは、「まがっている心をまっすぐにしなさい。」と言いました。神の子であるイエスさまをむかえるためです。
4章の最後に出てくるバルナバの献金と5章に出てくるアナニヤと妻サッピラの献金が今回のストーリーです。バルナバが光、そしてアナニヤ夫婦が闇とでも言えるような記事です。そしてこの記事の最後の締めくくりの言葉には「非常な恐れが生じた」とあります。
今回の箇所で神は公の方法で罪に対してその裁きを見せます。常にこれほどまでに大ぴらに対応されるとは限りませんが、これは今回の記事の時代がいかに教会にとって大事な時であったかを表すものです。