「神様は、私達が快適に生活を送れることではなく、私たちの人格を築き上げることに関心がある。(God is interested in building our character, not our comfort.)」マーク・フランシスコ牧師
“Character, not comfort” 「安楽ではなく人格」という言葉が礼拝説教で与えられました。クリスチャンとして、自己中心に陥らない様に気をつけている筈なのに、取っている行動を吟味すると、何と神様を忘れ自分の力に頼り、自分の思いに導かれていることか、と想わされたのです。
教会の事務所には色々な問い合わせや、訪問者があります。プロジェクトに取り組んでいたり、ちょっと複雑な事務処理のために集中している時に限って良く電話が鳴ったり、訪問客があったりします。先日もまさしくそんな頭を絞っていた時のことです。近くにお住いの方がいらっしゃって、恵まれない方たちのために手製の編み物を寄付したいと立ち寄ってくれたのでした。「はい、どうも。じゃあまた。」で済ませて頭を仕事に切り替えたかったのですが、神様に、「100%この方に注意を向けてお話ししなさい」と言われた感じがしたのです。私は渋々と(もちろん心の中でだけ渋々の顔をしていたんですが)お話をしました。この方の生い立ち、今の生活についてなどいろいろ話を聞かせてもらいました。
数分前までは、自分の携わっている作業以上に大事なことは無い、と考えていたのがまるで嘘のように、目の前にいる人と語らうのがもっと大事だ、と思ったことでした。その方と家族が恵まれるように、と願い求めると同時に、何と自分が恵まれたことか、と想わされました。
マーク牧師はボンヘッファーの言葉を引用し、自分に焦点を当てた生き方ではなく、神様に委ねた生き方を実践することを勧めました。
「クリスチャン達が、しかも聖職者たちが、自分の働きはとても重要で、緊急を要することに携わっているから、誰も自分を邪魔するべきではない、などと考えてしまいがちなのはおかしいことだ。(中略)私たちは助け舟を出すことに手をこまねいていてはならない。自分のスケジュールは自分で管理するものだと考えるのではなく、神様によってアレンジされる余地があるようにしておくのである。それが謙虚を実践するということの一役を担うからである。 It is a strange fact that Christians and even ministers frequently consider their work so important and urgent that they allow nothing to disturb them. …. But it is part of the discipline of humility that we must not spare our hand where it can perform a service and that we do not assume that our schedule is our own to manage, but allow it it to be arranged by God (Life Together, 99).