読む前の要点:
- 教会やクリスチャン達が迫害されるのであれば、どの様な存在からの迫害があると思いますか?
- 迫害の理由はどんなものが有るとおもいますか?
- 逆に、政府がクリスチャン達に対して有利な扱いをし出すとどの様な影響があると思いますか?
教会が育つ その1
現代、イエスキリストに信仰を持つ可能性が全く無いかの様に見える国々でも、迫害を受けながらも彼を礼拝し続ける人達の数は記録しきれないものです。それを視野に入れると、全世界で広まっているクリスチャンの数は、23億人を超えた大きさになっています。限られた字数の中で、現代までの教会の発展の経緯をかいつまんで書きます。
歴史の中で、神がこの世界に「秩序」と言うものを神殿制度や律法、またイエスキリストの教えを通して与えてくださっているのに対して、人々は原罪を持った人間の行動に戻ってしまうと言うパターンを繰り返します。(ノアの時代、バべルの塔、荒野での40年、イスラエルの王国時代、等)そんな中で、個人的にも社会的にも神が数知れず介入してくださっている事が聖書から読み取れます。その愛しみある神の姿は教会が「育っていく」中にも見る事ができるのです。教会史を学ぶ時その事を心得て、人間の行動に目を留めるのではなく、幾度も思わしくない状況や出来事を上手に用いて物事を良い方向へと戻してくださる神の不思議な業に目を留める事が大切です。
創世記-歴代誌、(とびら⑦⑯⑰)
一世紀:イエスのよみがえり 〜 ローマ帝国からの迫害
聖書の中の「使徒の働き」と言う書物には、それまでの四福音書の続きの様になっていています。その中でよみがえられたイエスが天に戻られる前に弟子達に、全世界に出て行って福音*を伝えて行く様にと命じられる所から始まります。教会時代はこの「使徒の働き」の中の話から始まっているのです。
*(とびら⑧)
聖霊によって力づけられた弟子達は、エルサレム周辺でイエスが何百年も預言されてきたキリストであられる事*を宣べ伝えだし、多くの人々がイエスを信じます。ただ、それは当時のユダヤ宗教指導者たちにとっては面白い事ではありませんでした。彼らはキリストの来臨を待っていると装ってきていましたが、実は自分達の利権や特権を守る事で頭が一杯だったからです。彼らこそ、イエスの十字架刑を実行させた当事者だったのです。死んだと思っていたイエスの名は絶えてしまうどころか、どんどん多くの人たちがイエスがキリストであると信じていったので、宗教指導者たちはイエスの信者たち(クリスチャン達)をひどく迫害しました。生きるか死ぬかの迫害が起き、クリスチャン達は様々な土地に離散し、それぞれの場所で教会の広がる基になったのです。
*(とびら④⑤) 「使徒の働き」
そんな中、アンテオケと言う土地 (現代のシリア近辺)で集まっていた教会が「本部」となって、そこからパウロと言う人物をはじめ幾人かの伝道者が小アジア、アフリカやヨーロッパに送り出されます。こうやって、福音は広まりますが、教会が増えていく事は、自身を神とするローマ帝国の皇帝/カイザル(当時はドミティアヌス 西暦81-96年)の怒りを招く事になります。なぜなら、クリスチャンたちは、三位一体の神*以外を拝む事をしなかったので、当然の事カイザルを拝む事はなかったからです。こうやって、初代の教会はローマ帝国から迫害を受ける様になり、それには度合いの変化はあってもその後250年ほど続きます。
*(とびら③)
四世紀: 修道院の発足
ところが、四世紀に即位したコンスタンティヌス皇帝は、自らがクリスチャンになった事からキリスト教をローマの国教として保護する様になり、瞬く間にクリスチャンに対する迫害がなくなりました。それは確かに喜ばしい事だったのですが、この余りに極端な風向きの変化は、社会に堕落を招く事にもなった様です。皇帝は、クリスチャンの人達に有利な待遇を与えていたので、今度は誰もが自身をクリスチャンであると自称し始め、実際には信仰を持たない人でもどんどん教会や政治の重役の地位を得る事ができ、私腹を肥やすためにキリストの名を使って政治を運営する者達も現れ、教会も未信者によって運営され始めたため信仰の精髄に関する大きな混乱が起き出します。
この事が原因で、真の信仰を守りたいと願うクリスチャン達は教会や文明を後にして、遠い静かな場所を求めて移住し始めます。信仰生活の基本である聖書(手書きで写したもの)の学びと祈りに専念にしたいと考えたからです。そういった集まりがあらゆる場所で、現代「修道院」として知られている施設に発展していきます。その後数百年に渡り、修道院では聖書研究、祈り、賛美歌作り、聖書の翻訳、世界への宣教、歴史の記録をまとめるなどの活動が行われます。
法王
さて、教会と言う形になっているあらゆる場所では、「司教」と言う存在が置かれ、人々に聖書を教え、指導する立場に任命されていました。その中で、ローマの「教会」が本部の様になっていた事もあり、次第にローマの司教の権力が大きくなり、「司教の中の司教」と敬われ、四世紀の末には「法王」と言う座が固まっていました。そして、 ローマ帝国が滅亡し出した五世紀の上旬から人々は教会と法王にリーダーシップを求める様になります。
教会の脱線
14世紀に入った頃には、法王の権力は絶対的なものだと定められるようになりました(ウナム サンクタム 1302年)。現代の様に聖書を簡単に手に入れる事も難しく、ましてや手に入れたとしても読み書きさえできなかった庶民たちが大半だった世の中でした。そうなると、法王が庶民にとって「神の代理」のような形になっていったのは自然な成り行きだったのでしょう。
抗議
代々の法王たちが皆、神に忠実であったならこの形でも良かったのかも知れません。確かに誠実な法王も居たと言えます。しかし、悲しい事に多くの場合そうではなく、いつの間にか聖書には書かれていない教理が教えられる様になります。あらゆる場所で、聖書に忠実な司教たちや学者たちもいたようですが、法王にはかないませんでした。 神がこの教会の状態に深く介入してくださったのは16世紀に起きた宗教改革の時でした。この改革に関しては次回にもう少し触れますが、この改革が元で「カトリック」と「プロテスタント」と言う言葉が生まれました。
「カトリック」と言う言葉は「総合の」と言う意味から来ています。宗教改革の只中、「総合」であった教会が聖書の教えから脱線していると指摘し、抗議するクリスチャンたちは「抗議する者」と言う意味で「プロテスタント」と言う名が付けられました。抗議された教理の要点は次の通りです。
1.絶対とされる法王の権限
- 罪を犯さず、間違いを犯さない人間は一人も居ないと聖書に書かれているにも関わらず、法王の言葉や決断が絶対的な権威を握っている体制が抗議された。論点としては、教会は神のことばである聖書に権威を置き、そこから直接学び、従うべきとされた。
(第一ヨハネ1:8、ローマ3:23 とびら⑦)
2.救われる条件
- 聖書には、イエスキリストの十字架での贖いを信じる信仰に救いがあるとされていますが、この頃には、様々な「良い行い」や献金が必要とされる事になる。16世紀には教会が「免罪符」と言う札を一般人に売りつけ始める。
(ヨハネ14:6、使徒の働き4:12、エペソ2:8-9、ローマ4:2-3)
3.煉獄の存在
-天国と地獄の間の場所、「煉獄」と言う場所があるとされる。死んだ後多くの人がそこで天国に入れる条件が満たされるのを待つと教える。その様な場所に関しては聖書には書かれていないだけではなく、こう言った教えは十字架のあがないの絶対性を否定する事になる。
(とびら⑧)
4.「聖人」の定義
ー カトリックでは、最も聖く生きたと思われる人物を取り上げて「聖人」と言うタイトルをその人につける慣わしがある。しかし聖書には、イエスキリストを信じ愛する人は、罪が赦され、イエスの義を受け取っていると書かれているので、神の目から見るとその人は「聖人/聖徒」とされます。これは、高ぶった考えなのではなく、十字架の贖いと神の愛の偉大な力を正面から受け止めている姿勢なのです。
(ローマ3:26、第二コリント5:21、コロサイ1:21-22、とびら ⑦)
5.聖人崇敬
ー イエスと個人の間に、聖母マリヤを含む多くの「聖人」という存在を置いて、その中の誰かに呼びかけ、仲介人として神に祈ってもらおうとする慣わしです。この慣わしは神の心を痛める偶像崇拝に値するもので、イエスの立場も十字架も無視している事になるのです。
(出エジプト20:2-4、使徒4:12、使徒14:14-15、黙示録22:8-9)
絆
現代のカトリックとプロテスタントの教えの違いは、おおかた上に記したものが今でも残っています。(免罪符の問題は宗教改革で解決しています。)これらの違いは重大な事柄であると心得ますが、カトリックとプロテスタントを「異宗教」として切り離す事はできません。イエスキリストを神とする教理すなわち:三位一体、処女降誕、十字架の目的、イエスのよみがえりと昇天、イエスの主権などで繋がっているからです。イエスを神であるとする信仰は聖霊の働きが心になければ持つ事はできないのです。*
*Ⅰコリント12:3
突き詰めると、プロテスタントであっても、色々な理解や意見が分かれたり、拘らなくて良いことに拘ったり、大きな勘違いをしていたりと、人間の世界なので、数限りなく間違いは起きます。ですが究極的な重大性をもった真理としては、個人の魂が救われる事、神を愛する事、そして神がくださった人生を用意してくださった目的に沿って生きる事であり、これらの真理がすり替えられる事があってはなりません。そして、人はこれらを通して真の生きる意味、喜びと平安を状況を超えて得る事ができるのです。
聖書に書いていない余分な教えや慣わしが間に入ると魂の救いに必要な情報が遠のいたり、神との関係の邪魔になってしまうものなので、気を付ける必要があります。その一方、神は脱線した時も介入してくださいます。与えられている知識と理解の中で心を尽くして神を求める人を必ず次のステップへと導いて下さるお方だからです。*
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