読む前の要点:
- キリスト教会の歴史が、どんな点で現代の世界に影響してきていると思いますか?
- 教派と言う物はどうやって出来てくるのだと思いますか?
- 「この世の終わり」と言う課題ではどんな事を知っていますか?どう感じますか?
教会が育つ その2
世界史と教会史は細かく入り組んでいる事がわかるでしょうか? 16世紀にプロテスタントがローマの教会から離れた時、変わったものは教会だけではありませんでした。その宗教改革の勢いに流されて封建制度の消滅、周辺国のカトリック教会との離縁、現代の義務教育の青写真、そして、アメリカ大陸のアングロサクソン系やヨーロッパ系の人種による占領と言う様々な視点で現代の世界のあり方が関連しています。今回はまたこの限られた字数でこれらの事の他、聖書が預言している未来についても少し触れます。
宗教改革
とびら17でチラッと触れた「宗教改革」ですが、これは、16世紀ドイツに生きたマルチン・ルター と言う人物から始まります。ルターは元々、修道僧であり、神学の教授でもありましたが、彼は真剣に神の心を求めながら聖書を読んでいくうちに、当時の教会が間違った方向へ走ってしまっている事に気づき始めたのです。中でも彼の心を大きく痛めたものは、神の愛、キリストの十字架を通じた唯一の罪の赦し(とびら⑧ 神が取った手段)をそっちのけにして、教会が「免罪符」と言う札を高い値段で人々に売りつけていた事です。この事がきっかけでルターは、神の真理をもう一度聖書の中に見い出す様に教会に呼び掛けた事から、彼は教会から大きな批判を受けます。その為、命の危険に面したルターは隠れた場所で、当時はヘブル語とラテン語でしか書かれていなかった聖書を長い年月をかけてドイツ語に翻訳し、もっと個人の身近な所に届く様に印刷して増やす働きを続けます。この頃、世界初の印刷機がルターの手元にも一台あった事は決して偶然ではなかったでしょう。
マルチン ルター
便乗する世界
ルターが語った真理とやや手ごろになってきた聖書は多くの人々の心に自由を与えました。しかしその一方、この宗教改革は方々の国々にとっては都合の良い動きでもありました。国々は、(デンマーク、スウェーデン、イギリス等)宗教改革の流れに便乗して、どうコジつけたのか、封建制度に逆らったり、他の国々ではこれを期にローマ法王とのしがらみから逃れるため、ローマカトリックから独立する立場をとるなどで、方々で戦いや混乱が起る事にもなったのです。
「それじゃ、ついでに私も。」と言わんばかりにイギリスのヘンリー八世は、1538年に自身の都合に合わせて「英国教会」を創立します。これはヘンリー王自身が言わば法王になったかの様な教会制度でした。 イギリス国内では、長年この事でもめ続け、多くのクリスチャン達が移住して出国します。
教育制度の青写真
ジョン ノックス:1543年、英国教会の下でプロテスタントの人達への迫害が始まります。迫害を受けた人達の中で、それまでスコットランドで聖職公証人を勤めていたジョンノックスと言う人物がいました。様々な迫害から、彼はジュネーブやフランクフルトに逃れますが、後に改革者としてスコットランドに戻ります。
その後ジョン ノックスは、「庶民こそ、読み書きを習い、自由に聖書を所得し、それに親しむべきである。」と言った考えから、どんな階級にいる人でも子供でも受ける事ができる、無料の教育制度を編み出し、公立小学校から大人のレベルまでのカリキュラムを作り、成立させます。これが現代、先進国で定着している教育制度の青写真となったのです。言い方を変えると、現代社会に義務教育や公立学校と言う体制が存在しているのは、元々は「みんなで聖書を読もう!」と言う心が火種になったのです。
ピューリタン達とアメリカ大陸の占領
17世紀に入った頃には、何だかんだで英国教会の影響が残っているイギリスの教会制度に不満をもったプロテスタントの人達が多く存在していました。彼らは、より聖書に親しむ事と清い生活に重点を置こうと呼びかける人々で、ピューリタン(「純」に基づく者)と名づけられていました。ピューリタンの人達は教会に向かって反対運動を起こしますが、政府や教会から相手にされないか、内戦になってしまうかの状態が続いていました。そんな中で、英国を見切った人達が、新たな社会を求めて他の国へ移住していきます。こんな形で、17世紀にアメリカ大陸にピューリタンの英国人たちが渡った事がその他のヨーロッパからの移民の動きも引き起こし、アメリカ大陸の国々の建設に繋がっていったいきます。それ故、つい最近までアメリカやカナダはキリスト教国として知られてきました。それが、この二つの国からも、代々に渡って世界各地への宣教が進められる事にも繋がっています。
ピューリタンのアメリカ大陸到着のイメージ
日本への宣教
一般の歴史学で日本に初めてキリスト教を紹介したとされているのは、1549年にフランシスコ ザビエルと言うポルトガルからの宣教師が来た時の事でした。その後、19世紀に入ってアメリカをはじめ、あらゆる国からの宣教師が日本に行って教会を築いてきていますが、現代では、日本からも宣教師が他の国に送られている事も多くあります。
「教派」と言うもの
世界中のクリスチャンの集まりの中で、歴史や文化や細かい意見の違いから、聖書の教えに関して強調される事柄がそれぞれ違ってくるのは自然な事かもしれません。こう言った違いが「教派」と言う形で定着してきた様です。これは避ける事のできない現象なのでしょう。このシリーズでも何度か語ってきている話ですが、三位一体、イエスキリストの神性を説く教理、十字架での贖いとよみがえりと言った中心的な、妥協できない教理があります。そこが狂って来た教えであれば、キリスト教に似ていても、「教会」だと自称しても注意をして距離を置かなければいけません。なぜなら、三位一体を信じる事は神の真の姿を認める事であり、十字架の贖いを信じる事は神の深い愛を信じ、それが個人の悔い改めと魂の救いに繋がるからです。これらが聖書が語っている中心的なメッセージです。教派は違っても、これらに共通点がある限り、その集まりは教会として認める事ができます。
終末
そもそも、「終末」と言う言葉はここではしっくりきません。と言うのも、聖書に預言されている「この世の終わり」はどちらかと言うと「後の世の始まり」でもあるからです。「終末論」と言う言葉がありますが、これは学者さんたちが、旧約聖書や新約聖書にでてくる終末時に関する預言に関するあらゆる解釈や起きるべき事柄の順序などに関していくつかに分かれた論議があると言う事です。本当のところ、起ころうとしている事柄とそれらの順番は確実に理解して言い切る事は誰にもできませんが、教会が待ち望んでいる事柄の内、いくつかをここに書きます。
携挙(けいきょ)、キリストの再臨、そして後の世
*「携挙(英:rapture)」として知られている事が起きます。携挙とは、すべてイエスキリストに属する人間が一瞬の間に天に引き上げられてしまい、この世から取り去られると言う出来事です。
マタイ24:30-31、マルコ13:24、ルカ17:34-37、ヨハネ14:3、第一コリント15:51-53、第一テサロニケ4:16-17、黙示録3:11
* イエスキリストの再臨:. 携挙と同じ時、もしくはその後、数年してからイエスキリストがこの世に再び降り来られます。その時は、ベツレヘムの新生児で来られた時とは打って変わって、威厳と権限をもって人類を裁かれます。
ゼカリヤ書14:4-5、マタイ24:30-31、黙示録1:7
* 後の世:
- 千年王国:キリストが再臨されてこの世を裁かれた後、この地球上で千年の間、王となって支配されます。
黙示録20
- 新天新地 /永遠の都:天国にいったら、魂だけがフワフワと雲の上ではありません。実際には、新しく与えられた体と新しく与えられた土地で生きるの事になります。
イザヤ書65:17、ピリピ3:20-21、第二ペテロ3:13、黙示録21:1
どうやって備えるか
これを読んで怖く感じてしまうなら、その理由は二つに一つでしょう。一つはクリスチャンではない場合です。クリスチャンでないけど、この話を怖いと思うなら悪い事ではありません。そう思う背景には「本当かも知れない。」と言う聖書の教えを否定し切っていない心と、「自分は赦されなければいけない。」と言う自覚があるからです。その場合、神がその存在を自分に明らかにして下さるようにと、自分が福音を理解できる様に祈り、神に応答する必要があります。(とびら7、8参照)
もう一つはクリスチャンである場合です。自分がイエスに従って生きてきているか、聖霊を悲しませて生きていないか、と言う不安は多かれ少なかれ多くのクリスチャンが持っていて、今携挙や再臨が起きたら、イエス様に合わせる顔がないと恐れてしまう。一体、どうしたらこれに備える事ができるのでしょうか?
答えはシンプルです。イエスキリストの愛を喜ぶ。そして精一杯愛し返す。イエスキリストを通した神との関係が深まれば、従って生きていく心も力もその都度いつも聖霊が与えて下さるからです。
そこでイエスは彼らに言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。」
マタイ22:37-38
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