慰めたい!
クリスチャンは本能(?)的に辛い経験をしている人を慰めたいと思うでしょう。聖書には「私たちも…慰めることができるのです」と書いてあります。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(コリント第二 1:4-5)」
でも励まそうという気持ちから「頑張って」とか「必ずいつか幸せが来る」なんて言うのは大抵逆効果です。「時が解決する」というのは希望的観測です。
ではその人と祈ったり、祈りのリクエストが来たらどうするのがいいでしょうか?最近の出来事、お葬式やお葬式の準備を通して想わされたことをシェアします。
悲劇
この投稿を準備している最中にバンクーバーで信じられない悲劇が起きました。バンクーバー市内で開催されていたフィリピンコミュニティーのフェスティバル会場で、車両が人混みに突入する事件が発生しました。死傷者が多数出るという悲惨な事件です。
教会は、キリスト信者はどのように祈ることが出来るでしょうか?
すぐ翌日の日曜礼拝でサム牧師はこう祈りました。(抄訳は筆者)
「聖霊よここにいらしてください。大いなる恵みの神よ。あなたは昨晩の出来ことで心を痛めていらっしゃいます。イエスよ、あなたが、あなたの友、ラザロの墓の前で悼み悲しまれたことを思い描きます。死は本来あるべきものではないからです。このような悲劇はあなたの心を痛めるのです。神よ、この出来事で深く影響を受けている一人一人を覚えて祈ります。息子を失った母親、妻、夫を失った夫婦たち、子供を失った親たちを覚えます。朝起きた時の痛み苦しみは想像を超えています。聖霊よ、どうか慰めをもたらしてください。あなたは慰めるお方であり私たちの平安であることを感謝します。あなたの平安がどうか一つ一つの家庭の上にありますように。嘆く方と嘆き、悼む方と共に悼みます。しかし希望のない悼みではありません。死も、殺人も、悲劇もなく、イエスよあなたが全ての涙を拭いさってくださるその日のやってくるのを心待ちにしています。そしてその時に全きな平安があります。どうか今朝、この真理に留まることができますように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。
Come, Holy Spirit—God of all grace. God, we know that you are grieved by what happened last night. We see this picture of you at the graveside of your friend Lazarus, Jesus, where you mourned and grieved because death is not the way it was meant to be. Tragedies like this break your heart. God, I pray for each person deeply affected by this. I think about mothers who’ve lost sons and husbands and wives who’ve lost their spouses and those who’ve lost children. God, I can’t imagine the agony as they woke up this morning. Holy Spirit, would you bring comfort? Thank you that You are our comforter and You are our peace. We pray that your peace will rest on each home. We grieve with those who grieve. We mourn with those who mourn. And yet, we don’t grieve as those without hope. We look forward to a day that is coming when there will be no more death, murder, or tragedy, when you, Jesus, will wipe away every tear, and when there will be perfect peace. And so we rest in that truth this morning. It’s in your name we pray. Amen.
CA Church Mariner Campus, Sunday Service, April 27, 2025
聖霊
苦しみ、悲しみ、痛みを経験している人との祈りは往々にしてどう祈っていいのかわからないことの方が多いです。多くの場合は無理やり絞り出す言葉よりも寄り添う姿勢と、聖霊が語り示すことを探りそれをシェアすることが最善です。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ 8:26-27)
慰めはどこから?
詩篇46篇の出だしにこう書いてあります。
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ (詩篇 46:1-3)」
イースターの前の40日間をレントと呼びますが、東方正教会ではその時期のことを「明るい悲しみ (Bright Sadness)」と呼ぶそうです。悲しみ(キリストの受難を思い体験する期間)も明るい光に向かっている(キリストの復活)と言うことでしょう。キリストが死を打ち破ったことが現実です。そこに希望があるのです。
第二次大戦で収容所で家族を失う経験をしたコーリーテンブームは苦難の中のキリストの愛についてこう語りました。「列車がトンネルに入り、暗くなったとしても乗車券を捨てて列車から飛び降りませんよね。そのまま座って、運転手を信頼しますね。(アルファ・コース)」つまり今は詩篇の語る「暗き谷の陰」を歩んでいても羊飼いの主を信頼します、と言うことです。
慰めは私たちの言葉ではなく、「神共にいます」という現実から来るのです。そしてそれは理論的な教えではなく、個人的な親密な関係において与えられます。
もう何年も前のことですが、当時のリードパスターのマーク牧師が家庭集会に来てくれて、偉大な神が自分を親密に扱ってくれることがどういうことなのか教えてくれました。彼は祈りのショールを一人一人に覆い被せて恵みの祈りをしてくれました。神の翼の陰にある、ということが具体的に感じ取れました。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。(詩篇 91:1-2)
慰めのイメージ
もう何十年も前のことですが、慰めについて仲間たちと学んだことがありました。バイブルキャンプのトピックの下ごしらえだったかもしれません。その中で慰めについてある牧師の話を耳にしました。これがずっと心に留まっています。
漢字の「慰」という言葉の語源には「ひのし」と「心」で構成されています。「ひのし」は厳密には「火熨斗」という漢字で表され、アイロンのようなものです。炭火のような火種を使って鉄を熱くして衣類のしわを伸ばす道具です。真ん中の漢字の部首が慰めにも使われているのがわかると思います。
この「ひのし」が「こころ」の上にあることから、慰める、ということは心のしわを伸ばすことである、とその牧師は説明していました。もちろんそれは漢字からの解釈ですのでそれをわきまえておき、そこから神学理論は発展させることはできません。あくまでもプラクティカルな助けなわけです。私にとっては「慰める」ということを考える時、こころに出来たシワがじんわりと伸ばされていくイメージが浮かびました。
ビジュアライゼーションやイメージングは誤ると勝手なご利益を思い描いてそれを獲得するんだ、なんていう道に逸れてしまいます。しかし一人で祈りの課題を祈ったり、一緒に祈りをする際に聖霊が心のシワをじんわりと伸ばしてくれているようなイメージをすることは私にとってはフォーカスを持つ助けになってくれます。
「慰め主」である聖霊が自分に寄り添ってくれることが慰めの根幹です。キリストが生きておられることが現実です。だから今の悲しみは「明るい悲しみ」であり希望があるのです。聖霊によって「ひのし」が衣類のしわを伸ばすように、「こころ」のしわも伸ばしてくれるのだと想っています。