あなたの信仰の歩みは慰めに満ちているでしょうか?それとも荒んだ、荒野の中をもがいているでしょうか。

「慰め」も「荒み」も16世紀に活躍したカトリック教会・イエズス会初代総長を務めた聖イグナチオ・デ・ロヨラが構築した「霊操」。。。信仰の上の体操とでも言えるでしょうか。。。に出てくる言葉です。

信仰は確かに山あり谷ありです。以前にも紹介しましたが、神様からの素晴らしい恵みに浸る山上の経験(マウンテントップ)もあるでしょうし、ダビデが描いたように「死の陰の谷」を歩む暗い時期も経験されたことがあるでしょう。神様は間違いなく、その谷において私達と共にいて下さいます。ダビデはこう語ります。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」

口語訳聖書による。詩篇23篇4

「むちと杖」は叱咤激励を表すと言うより、この詩篇のテーマを考えると、イエスは牧者であり、私たちが羊ですから、敵(野獣とか)から羊を守るための、そして誤った方向に進まないようにするための羊飼いの杖をさすと考えられます

ロヨラは、「荒み」をこう解説しています。

「たとえば、霊的な暗さとか乱れ、卑しく現世的なものへの動き、不信へと駆り立てる種々の乱れや誘惑からの不安、希望も愛もなく、霊魂がすっかりものうく、なまぬるく、もの悲しくなってしまい、創造主から切り離されたように感じるのを荒みという。」

『霊操』(改訂版、ホセ・ミゲル・バラ訳、新世社、1992年。)

得てして、こんな「荒み」の状態の時に大事な決断をしようとすることがあります。目指していた大学に入れなかったり、長年付き合った相手と別れねばならなかったり、生きがいに感じていた職場を辞めることになったり、、、、心がかき乱されて、希望がなくなり、一体神様はどこで何をしているんだ、と叫ぶとき、実は「荒み」にいるのですね。

神様は離れている訳ではないのは冒頭で紹介した詩篇からわかります。でも、自分が「荒み」にあって、神様の声が全く聞こえない時に、つい、自分の心の声や、誘惑する敵の惑わしの声が大きく聞こえることがあります。

「何をしてもダメ人間なんだ」

「別の彼女を探そう。そう言えば可愛い子がバイト先にいるな」

「遠くに引っ越したい」

などなどです。

こんな状態の時は決して重要な決心はしないように、とロヨラは続けて注意を促しています。

荒みのときは、絶対にことを変更してはならない。かえって、その荒みに先立つ日の決定や決心、または、その前の慰めのうちの決心を堅固にゆるぎなく守るべきである。」

上掲

神学者のトーマス・グリーンはこう語ります。

「神様の御心を知るための色々な助言は全部忘れてもいいが、どうしてもこのこと一つを覚えていて欲しい。そしてその一つのことを忘れずに行うなら、人生の9割の悲しみを避けることが出来るからだ。なぜ善良な人たちが誤った決断を下すかと言うと、彼らが自分の置かれている状態を荒みの状態だと読み取れなかったことによる。落胆、霊的に乾いた状態、心が落ち着かない状態を神様の御心のしるしとして捉える、と言う過ちを犯すからである。悪魔は信心深さに、そして自分をかわいそうだ、と感じることにつけこんでくるのだ。自分の置かれている不安定な現状が、神様が彼らを喜んでおられない、あるいは神様を遠ざける原因だ、と勘違いさせるのである。敵は我々よりずっと狡猾だ。」”So important is this rule that I often tell people to remember it even if they forget everything else they ever hear about discernment. If they remember, and abide by, this one crucial rule in their spirituality, they can eliminate 90 percent of the unhappiness in their lives. Good people make bad decisions because they misinterpret desolation, because they take discouragement, dryness, restlessness as signs of God’ will for them. The devil plays on their piety, and their subtle self-pity, by convincing them that their troubles signify God’s displeasure with them, or his abandonment of them. Unfortunately the evil spirit is generally much smarter than we are!”

“Weeds among the Wheat” by Thomas Green

CA Church のDavid Wood師は、こんな荒みの時には次の2つのことを実践するのが良い、と言います。

  1. 自分がこうしたい、と感じることの逆をしてみる
  2. 神様なんてどうでもいい、と思える時こそ、神様に食らいついてみる

それでは「慰め」の状態は、それではどんな状態でしょうか?David Wood師は続けてこう語ります。

「慰めと言うのは、私達の情緒反応です。神様が力強く、善きお方である、と思い起こさせられ、私達が、神様のもとへと引き込まれるていくような、人生における状況に対して、情緒的に反応することなのです。イエスが善きお方であり、自分の人生に細かく、活発に関わって下さっており、全てを司っている、とはっきり理解し、喜びと平安を深く広く体験することなのです。真の慰めの状態は必ず神様からのものです。何かしらの引き金になるような原因はありません。「すべての知識を超えた平安」、喜び、信仰、希望、愛、それらを「突拍子もなく」体験する時、慰めの状態だと言えます。」”Consolation is an emotional response to a set of circumstances that remind us and draw us into God’s power and goodness in our lives. It is a deep and pervading sense of joy and peace and a clear vision that Jesus -who is good – is sovereign and is active in the details of our lives. True consolation is always from God. There is a consolation without an obvious cause. It is when you and I experience a “peace that transcends all understanding”, a sense of joy, faith, hope and love that seemingly comes “out of the blue.””

Hearing God Conference, CA Church

何年も前に「イエスの声」と言うカンファレンスに参加しました。人生の岐路で、神様からの答えを聞こうとして参加しました。でもきっとその当時は私は「荒み」にあったと思います。そのカンファレンスは2日間のものでしたが、最初の1日はすべて、「神様はあなたを愛している。」「十字架にかかるほどに愛している」「神様は信頼できるお方である」と言う真実と、「神様は罪を告白すれば必ず許し清めてくださる」と言う真実に浸るセッションでした。自分を委ねる、と言う安心感を得られる時になったと思います。

結局、自分の探していた答え、に対する直接の応答はありませんでしたが、それ以上の神様からの導きを感じ取りました。あのコンファレンスに出ておらず、イエスの声を聞きそびれていたら、今の人生はあり得ませんでした

「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」

詩篇73篇21〜25節

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