25 さて、大ぜいの群集が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もし塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
ルカ 14:25-35
後をついてゆく
上掲の写真は有名な映画二つからの一コマです。ご存知の方も多いでしょう。どちらも主人公が走っている後を群衆がついて行っている場面です。走り出しは一人だったのに知らないうちにどんどん追いかける者達が増えていきます。イエスに付き従っている群衆達も同じように「主人公」の後をついていったでしょうか。イエスに従って歩むということはどんな意味や結果が待ち受けているのでしょうか。
弟子として従って歩む犠牲
ロッキーやフォレスト・ガンプもイエスのように群衆が後をついて回っていたことでしょう。現代風に言うなら、フェースブック、ユーチューブチャンネル、インスタグラム、ティックトックに数多くの「フォロワー」がいるようなものでしょうか?
イエスは自分にフォローしてくる人々に向かって、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」
当時も現代もこのような言葉を聞くと耳を疑ってしまうでしょう。そもそもクリスチャンは家族を大事にするのでは?コミュニティーを大事にするのでは?と疑問を持つのは当然です。
イエスは続けて、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言います。
十字架は今でこそキリスト教のシンボルとして広く知られ、アクセサリーになるなど、美しいと思うでしょう。しかし、イエスの当時、十字架と言えばローマの、つまりユダヤ人からしたら異邦人の使う残酷な処刑台でしたから、それを負ってついてゆく、と言うことはその十字架に自分もつけられる、そのように自分を犠牲にする覚悟を負ってついてゆく、と言う意味になります。
イエスの使命は真のイスラエル人として、御父のみこころの通りに十字架で死に、3日後によみがえり、天に昇ることでした。イエスは今、エルサレムに向かっています。この使命以上に大事なことはなかったのです。
イエスが、「憎む」と言う単語を用いたのは、おそらく当時ラビたちが用いた、ハイパーボレ、誇張表現であろうと言われています。ハイパーボレは人々の注意を惹き、それまで気づいていなかったような事柄に気づくことが出来るような役を果たすのです。不思議な奇跡や熱烈な説教を気に入ってついて行ったり、みんながついて行っているから自分も行こうと思ってついて行っていたり、何かわからないが格好良いからとついて行った群衆にとって、「家族を憎め」と言われ、ショックで気を取り直してよく聞いていたら、今度は自分を捨てて、ローマの拷問処刑を覚悟でついてきなさい、と言われて目が覚めたように思ったものたちも多かったのではないでしょうか?
警告
イエスは「聞く耳のある人は聞きなさい」と警告します。何を聞くべきでしょうか?
イエスのたとえ話を聞いていた当時の人々にはピンと来ていたかもしれません。「塔を建てる」と聞くと当時のヘロデ王が神殿を再建築しようとしていたプロジェクトのことを考えたかもしれません。「戦いに臨もうとする王」と聞けば権勢を誇るローマに対する戦いのことを考えたかもしれません。どちらも大きな犠牲を払い、周到な用意が必要な行動です。イエスはそれを踏まえた上で、今イスラエルが面しているのは真剣に神を求めること、それがイスラエルに与えられていた使命だと警告します。それがなければ塩が塩気を失い、建築途中で挫折する建築家になり、無謀な戦争に用意もなく出立する王たちのようになる、と警告しています。