お知らせ
このブログシリーズは、リージェントカレッジのリフレームコース及び、CA Church で開催された文化と信仰のコースを基にして作成した日本語でのバイブルスタディーを基盤にしています。リージェントカレッジのリフレームコースの本編の紹介、ストリーミング及びダウンロード出来るビデオコースはこのリンクからアクセスしてください。
はじめに
前回の学びでは私たちの身の回りに飛び交うこの世のストーリーによって、私たちが「自分は誰?」、というアイデンティティーの問題に対して混乱した考えを起こし、解決が見出しにくくなることを知りました。誤ったストーリーを辿ってゆき、挙句に、私たちは間違った道を選び、気づけばそこは行き止まり、という具合なのです。言い換えると、出発点も目的地も見えないストーリーの中で私たちは迷子になっているのです。
ですからこそ、私たちは聖書のストーリーにしっかりと足をおろさねばなりません。そこに最高の答えが探し出せるのです。なぜなら、聖書のストーリーの中でこそ、「わたしはある」とおっしゃるイエス・キリストに出会うことが出来るからです。このイエスの中にこそ私たちの本来のアイデンティティーを得ることが出来ます。私たちの心に平安を得ることが出来るのです。
これからの数回のセッションでは、この聖書の大きなストーリーを見て行きます。エマオの道を歩む弟子たちを思い起こしてみて下さい。その弟子達は、ストーリーを知っていた、と思っていたことでしょう。しかし、イエスが彼らに神のストーリーを解き明かし、その姿を現すまで、彼らは本来のストーリーを本当に理解していたとは言えなかったのです。あなたも聖書のストーリーは知っている、というかもしれません。でもなぜか、自分の考えていた聖書のストーリーと自分の人生のストーリーの歯車が合わないと感じていませんか?自分のアイデンティティーと神様の望まれる道が一体どう関連し、結びつけられるのか、と、悩みを抱えていませんか?
Hugo Ciro のストーリー (ビデオ前半)
リフレームのビデオの中の、Hugoのストーリーを見てください。彼も聖書のストーリーと自分の人生のストーリーがちぐはぐに感じ、思い悩んでいました。「一体どんな人生だったら、クリスチャンとして神様に仕えたいという願いと、仕事で成功したいという思い、持って生まれた貧しい人々への重荷をすべて連結し満たすことが出来るんだろう。 大問題だった。ごちゃごちゃと考えさせられていた。」 「日曜から次の日曜までの間、イエス様はどこにいたんだろう。見失っていたんだ。」 「自分の仕事を選ぶのか、それともイエス様に仕えることを選ぶのか、のどちらかを選択するように迫られている気がした。」 とユーゴーは語ります。
私たちも、信仰をとるか、自分の生活を取るか、というような二者択一を迫られているように感じることはありませんか? 信仰生活の上で、何を見落としているんでしょうか?
「初心忘るべからず」という言葉がありますが、何事も基本が肝心、ということでしょう。聖書のストーリーを考える時、クリスチャンとして、私たちのストーリーはどこから始まるべきでしょうか? 創世記1~2章から始めましょう。このストーリーでは、人類のみならず、全宇宙の創造について書かれた箇所であり、その中で神様はそのご性質を明らかにされており、人類のアイデンティティーを示してくださっています。
創世記 (1章–2章の抜粋)
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全治の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創造には始まりがある。(創世記1:1)
どんなストーリーにも必ず著者がいます。創造には神が著者といえます。創世記1章1節は、天地創造の紹介文とも言えます。これから神が何をなされるのか、というテーマ、主論なのです。 神が天と地を造られたのです。そこには個性があります。古代ギリシャ哲学者たちがいうような、またヒンズー教などが言うような無機質の創造ではありません。人格をもった全能の神様が天地を定めの時におつくりになったのです。
トーフーとボーフー (創世記1:2)
豆腐と暴風雨?ではなく、ヘブル語で混乱と空虚を表す言葉だそうです。創世記1章2節は、「混沌と空虚があり、神の霊が水の上を覆っていた」、とあります。これが破れたる現実でした。神の霊が水の上を動いていた、の動くはホバークラフトでおなじみのホバー、つまり漂っていたと書かれています。それはあたかも、ノアの箱舟から放たれた鳥が下りる場所を見つけられずただただ水の上を飛び交った記事を思い出させます。
神の贖いのわざのスタート(創世記1:3以降)
神様は第一日から第六日にわたり創造のわざをなされました。トーフー・混沌には秩序を、ボーフー・空虚には満たしを創造されたのです。創世記の第一日~三日で世界が形作られました。そして第四日~六日がこの地を満たす創造です。惑星、月、魚、鳥などが創造されたのです。この地に住むことが出来るようにしてくださったのです。破れた現実を贖い、美しい、秩序ある、恵みに満ちた世界にしてくださいました。まさに贖いのわざです。
天地=被造物は神ではなく、また拝むべき対象ではない
気をつけねばならないのは、すばらしい被造物を見ると、人類は、すぐにそこに神性を見出そうとし、拝むようになります。被造物は神ではなく、したがって神性を持ちません。古代中近東などにおける宗教観では、世界と神々とはつながりがあると考えられていました。したがって、この世は崇拝されるべきだと考えたのです。太陽や月は神々としておがまれました。嵐の神が嵐に存在するというのです。自然界全てに神が宿っているのです。また、古代宗教においての神観念や人間観念はというと、全て造られた世界は、神のためであるというのがベースのようです。神が地をはぐくみ、繁栄させる。従って人類とは、神に仕えるものである。神殿で仕え、神々が安息でいられることが存在理由となる。そこから恩恵を受ける。神々を怒らせるならば戦乱、飢饉をまねくことになる。というような考えがよく見受けられます。 日本ではどうでしょうか?
日本の例(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説):
八百万神 やおよろずのかみ:
神道(しんとう)で数多くの神々の存在を総称していうもので、実際の数を表すものではない。古事記では、天にある高天原に神々の世界があり、その指令(意志)によって地上の国(葦原中国)は作られ、かつ、統括支配される。すなわち、高天原の意志で総てが動く。その高天原の主宰者は天照大神である。葦原中国は先験的に天照大神の子孫が治らす国であると定められている。また、日本書紀においては、総ては陰陽の理によって自動的に進行する。天の世界があり、そのスポークスマンとしてタカミムスビがいるけれど、その指令で世界が動いているのではない。天と地(葦原中国)とは基本的に対等である。葦原中国の主も、予め予定的に定められているのではなく、武力的に奪うのである。 いずれにしても、どちらも、あくまでも天皇神話である。人間(人民)については始まりを述べることもない。そして、世界は(天上の国)と(地上の国)で構成されてる。天上の国は古事記では高天原と呼ばれるが、書紀には名はない。地上の国はいずれにおいても葦原中国と呼ばれる。この外に、古事記には黄泉国と呼ばれる死者の国がある。また、いずれにおいても、根の国なるものが出てくる(古事記では1箇所のみ)。これが何なのかは明らかにされていない。地下の国か、地上の国としても隔絶した遠方の果ての国であり、すべてスサノオが逐われた国として出てくるのみである。
創世記における神
では、創世記の描く神様・そして人間の姿はどうでしょうか?
- 神は人類のように必要・ニーズがない
- 神は人類を創造してそのニーズを満たすのではない
- 神が天地の神殿に存在するのはそのニーズが満たされるかどうかにかかっているのではない
- 世界は神々のために創造されたのではなく、被造物のために造られた
- 被造物が神々を養う必要はなく、神が被造物に食物など恵みを与えられる
- 被造物は神の奴隷として造られたのではない
- 人類は極めて高い位置にある存在である(創世記1:27)ー 世界の管理者から神殿における神の似姿・神像としての地位
この地は神ではないが (not divine)、聖なるものである (but sacred)
神が7日目に休まれた、とあるが、古代へブル人の観念(この時代の人がこの時代の理解に基づいて筆記した)では、Rest = Rule 休息は統治を表している。神は6日間で、混沌に秩序を、虚無に満たしを与えた。2節が壊れた現実であるなら、神はそれを修復し贖い、自分の住まわれる(治められる)全宇宙を創造されたのある。 したがって、この全地は神の統治する、住まわれる神殿といえる。 (詩篇8篇、19篇、132篇7~8節と13~14節など)
この地が聖い、とされるのは、創世記1・2章が神殿を比喩していることによる。 例:ヘブル語の月は荒野に建てられた仮庵に灯す明かりと同じ単語に由来している。創世記2:2で、「神はそのわざを終えられた」とあるが、それは出エジプト記40:33における、「モーセは(仮庵の働きを)終えた」と同じ単語が使われている。エデンの入り口は東、神殿も東にある。神殿には神像がつきものであるが、創世記においての神の像はというと、それは創造された人類である。神に似せて造られたとある。
人類のアイデンティティーとは。私たちは何をすべきでしょうか?
この地・全宇宙が神の住まわれる神殿として造られ、それはどこに行っても神聖であるとわかります。他の被造物よりも特別な存在として造られた人類は、全て人は被造物を治める王として造られた(創世記1:25)のみならず、この神殿にあって、人はすべて祭司として、とりなしの役を果たす(創世記2:15)これは、犠牲的に被造物の世話をすることを意味する。
この状態は、シャローム(満ち満ちたいのちの状態、健全、繁栄)の状態であったといえます。3つの重要な関係(1)神との交わり (2)他の人類と(3)被造物との関係、これらが持続的に、正しく保たれている世界は、シャロームを体験していたのです。
罪と堕落。一体何が起きたのか?
ところがそこに罪がはいり、創世記3章ではこのシャロームが脅かされ、疎外・分断が生じたと書かれている。3つの関係に断裂が起きたのである。創世記4章以降、疎外が入り込み、人類が他の被造物から分断された。創世記9章では動物が畏れ逃げた。 地はもはや人に協調せず、人生が厳しい労働、そして最後には死んで土に帰るものだと表現されることになった。
この地を私たちはどう見るべきでしょうか?
では、この世はもはや元に戻る望みはないのでしょうか?確かに悪が世を損ないましたが、聖書の信仰は創造神は今もこの世にかかわり、恵みをもたらしています。神はこの地を今も愛し続けているのです。悪が入り込んだけれども、この地は依然として良いものなのです。(詩篇19:1) 壊れ、もとの素晴らしさを失ってはいても、この地に神様は依然としてシャロームをもたらしています。この地は、逃げ出すべき場所でもありませんし、仕方ないと受け入れる場所でもありませんし、何をもってしても牛耳るべき物でもありません。 神様がシャロームをトーフーとボーフーから造られ、今も贖いのはたらきをされているのですから、創世記に描かれているように、私たち人類は、この地を守り、治めるように導かれるべきです。
この世における問題の数々
確かに問題は多くあるでしょう。 しかし、良い知らせは、神様は問題を解決するべく今も常に働かれている、ということです。私たちに、問題解決をせよ、と放っておかれているのではありません。神様ご自身が地を救い、贖いだそうと働かれておられるのです。壊れた関係を修復されるべく働かれているのです。神はその御霊を注がれ、私たちを造り変えて、エデンの園の中でそうだったように、神との深い交わりへと戻してくださるのです。 贖いなしでは(コロサイ1:16-25)創造には意味がなく、無駄な、無益なことが次から次へと起こるだけのことです。私たちは、「創造の目的はなにか?それは贖いである(ロマ8)すべていのちあるものは、イエスの贖いのわざのもとに連れてこられるべきです。イエスのいのちにこそすべてのいのちがあるからです。
まとめ
聖書の語る私たちのアイデンティティーは2点:王と祭司です。
- 神との正しい関係を持ち、人との正しい関係を持つことによって、「創造の上での命令」である王として、祭司としての務めをはたす
- 神と共にこの世の贖いのわざに励む。預言者としての働き、つまり人々にシャロームにもどるよう呼びかける・働きかける務めを果たす
自分も被造物のひとつだが、他の被造物とは異なるユニークな点、それは神の似姿に造られていることを自覚して、この地を守り、神の園の面倒をみる務めを果たすべきです。荒地を減らし、荒廃から、野獣から守り、この地を繁栄へと導く一端をになうべきです。シャロームを追い求めることを目標にするべきです。
Hugoのストーリー(後半)
「表計算や帳尻合わせでイエス様に仕える信仰生活は送れるか? 絶対アリ!(Absolutely!)」 彼は、それまで、自分の仕事と信仰は二律背反するもので、仕事に打ち込むことは神の意志に反すると勝手に考え、悩み苦しんでいました。しかし、ついに彼は仕事・情熱・賜物・教育などが神様のはたらきとして精一杯利用することが出来る、という理解に至ったのです。 与えられたすべてが主の御用に役にたっており、言いしれない「自由と喜び」を体験しています。
何をするのも主への働き(work of the Lord)。それは「ジョブ」ではなく「ボケーション vocation」すなわち calling (召し)なのです。人間の仕事・生活が、神の贖いのはたらきを担っていることを認識するべきです。それならば、自分に与えられているボケーションは具体的に何でしょうか?祈り求めてみませんか?今の仕事、生活の場、人との関わりなどを通して神様が間違いなく贖いの技を担って欲しい、と願われているはずですから。
考えてみませんか?
- この地を守り、治め、世界を変えるにはどんな努力が必要でしょうか?
- 私たちの生活(仕事、家庭、学校などなど)が神様の目的とうまくそぐわない感じがしませんか?天地創造からわかる神様のご性質(創造神学)は、この一見不具合に見える関係(緊張関係)をどのように解決し、ユーゴーのいうような、「言いしれない自由と喜びの人生なんだ」という生き方になることが出来るでしょうか。
- あなたには信仰と人生・生活が上手くかみ合うような転機があった経験がありますか?
- クリスチャンとして、生きている間にこれだけはしたい、というようなリストがあるとしたらそれにはどんな項目があるでしょうか?退職後の生活はどんな生活があるべきでしょうか。