もうものすごく昔の話ですが小学生の頃ボーイスカウト( 小学生はカブスカウトと言いますが)に入りました。 入団後にまずリーダーから教わったのは、「す・じ・た・お・す」 の「定め」でした。それは、
- 素直である
- 自分のことは自分でする
- 互いに助け合う
- 幼いものをいたわる
- 進んで良いことをする
の頭文字でした。本当に身についたかどうかは疑わしいですが、 今でも覚えているところを見ると、なんども繰り返したおかげで頭に刻み込まれたんでしょうね。
クリスチャンには「使徒信条」というのがあります。 私の通う教会の夏休み中の礼拝メッセージシリーズが使徒信条で、 「私は。。。を信じます」、という信条書から学んでいます。教会の中では礼拝の一部として信条を会衆が朗読するところもあります。
使徒信条は何かと言うと、「使徒」つまりクリスチャン全てが、「信条」 つまり何を信じているか、信仰のエッセンスを告白するものです。 迫害が激しかったローマ帝国時代に形作られました。皇帝が「神」として君臨している、という帝国に対して真っ向からキリストが「神」と信奉するわけです。自分の信仰を「私は。。。信じます。」と告白するのです。
教会の歴史上では重要な位置を占めているのはもちろん、その告白内容は現在もクリスチャンとして生きる上で重要です。なぜなら、北米そして日本の文化。。。ポストモダン、相対主義、消費主義などなど。。。では「皇帝」は目の前にいませんが、「神」にとって代わろうとするものが次から次へと現れます。そしてクリスチャンとしてばかりでなく、人間として自分は何者か、という存在意義・アイデンティティーを脅かしていると思います。
使徒信条は、そんななかで、このように自分の信仰を告白します。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラト のもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に くだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父 なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にた る者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、 永遠の生命を信ず。
アーメン
使徒信条は、現代文化の潮流に逆らうものです。文化は「古いものは悪い。新しいものは良い。だから過去は切り捨てて未来を見よ。」と、あるいは「絶対なる真理は無い、だから自分が自分を見つけることが人生の意義だ。」と、またあるいは「あなたはあなた。わたしはわたし。それで良いではないか。」と語りかけて来ます。 CA Church のデビッド・ウッド先生は、使徒信条の役割についてこう説明します。
「教会の未来はその過去に存在している。もし、 私たちがどこから来たのか知らなければ、 今どこに存在しているのか、自分達は誰の元に存在しているのか、 それを知ることができないからです。」
“The future of the church is located in its past. If we don’t know where we’ve come from, we don’t know where we are nor who & whose we are.” Pastor David Wood – CA Church