皆さんのクリスマスはいかがでしたか?教会にイブに集まったり、クリスマス音楽のコンサートに行ったり、家族・友人と良いひと時を過ごされたことでしょうね。
一年を振り返って、新しい年の抱負を考える時になりましたね。反省してみると、やはり人間関係についての悩みやわだかまりが残っていませんか?職場でも、家庭でも、常に人間関係が一番難しいのではありませんか?人から自分について批評・批判を受けて、お互いの関係がギスギスしたり、相手に対してずっと腹を立てていたり、自分の不甲斐なさにがっかり・気落ちしたりしていませんか? 時には悔しくて眠れない、なんていう経験もお持ちになっているかも知れませんね。
願わくば神様の助けと知恵に頼って、上手く行かなくなった人間関係が来年になる前に解決しますように。
先日、私の通う教会の牧師の一人、ブラッド先生が短く「批判」について教会のスタッフに対してプレゼンをしました。その中で感じたこと、そして自分が想わされた事をシェアします。
まず、批判は受けるにしても与えるにしても、大きく分けて3つに種別されます。
- 的確な批判
- 不正確な批判
- 悪意のある批判
1. 的確な批判
「的確な批判は私たちを成長させてくれる役を担う、天の賜物です。」
Pastor Brad Strelau, CA Church
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。」
箴言15:31-32
教会スタッフのまとめ役を務めるリーダーのサムはしばしば、「What am I missing? 何か僕は見逃していないかな?」と皆に問いかけます。自分が全て分かっているはずがないのです。相手が的確な批判を持ち出しやすくするようにお膳立てをし、自分が批判を受けやすいように心の準備をするのです。彼は的確な批判は成長につながる大事なものだと分かっているのです。
2. 不正確な批判
不正確な批判をする相手は、「もっとより良い結果を出したい、出せるはずだ」、という気持ちから出てくる批判なんです。
「不正確な批判を受けたら、それを教え導く機会にしようと考えて行動してください。」
Pastor Brad Strelau, CA Church
批判をした相手は、良かれと思って、聞き苦しいだろうが言っておきたい、と言う気持ちを持っている事を忘れてはいけません。ですから、自分が感情的になったりして過剰反応しないように気をつけるべきです。「何にも知らないくせによくそんなこと言えるよな」と言う強い自己防衛過剰のためか、逆に強い反発をして、言い争うに発展してしまう、なんてことにもなりかねません。
以前、あるスタッフに対して、「Dさんから連絡をもらっておきながら、なかなか電話してあげないのは良くないんじゃない。早く電話かけてあげたら?」と批判したことがあります。私には、K君に対して少しじれったくなり、忠告したのです。自分だったら何はさておき、まずすぐに連絡をしてあげて安心させたいのに、と思っていたからです。
K君と話して見て分かったのは、お互いがそれぞれ見えていない点があったことでした。彼には彼なりの言い分があり、その言い分は正当な理由だと思えました。しかし、私の観点もまた、彼には分かっていなかったので、お互い不正確に批判をし、不正確な批判の受け止め方をしたのです。私たちがすぐに分かったのは二人ともDさんにとって最善を求めていたのですが、方法論において食い違いがあったのです。結果的に私もK君もより理解を深めることが出来ましたし、結果Dさんにも良い効果があったと思います。
使徒の働きに、この「不正確な批判」→「落ち着いた説明」→「皆が理解を共有」という図式が出てくる箇所があります。ちょっと長いですが読んでみてください。
「さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。
そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。』と言う声を聞きました。しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』と言いました。すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。
すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます。』と言ったというのです。
そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。
こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。」
使徒の働き 11:1-18
3. 悪意のある批判
悪意のある批判は厄介です。なんと言っても相手はあなたを傷つけようとしているのですから。
「悪意のある批判を受けたら、それは恵みを施す機会と考えて対応してみてください。」
Pastor Brad Strelau, CA Church
悪意のある批判がもたらすのは自分への個人的な攻撃です。それは自分というアイデンティティーを脅かし、心を騒がせることにつながります。建設的な批判でもなく、話して分かり合えるような次元でもありません。
覚えておくべきなのは、福音は悪意を中和することが出来るのです。悪意に対して神の恵み、福音で応対することが可能です。それが「めぐみを施す」と言う意味です。
最初に確認すべきは、自分のアイデンティティーと悪意の批評の間にキリストがいてくれると言うことこです。それを忘れてはなりません
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
ローマ8:1
そうは言っても。。。。
批判を受けて、それを3つに振り分けて対応しようとしても、私たちには感情があり、どうしても上手に受け止められないかも知れません。次の3つの質問を通して方向性を考え、行動に移すのをおすすめします。批判を受けたらまずその批判は3つの種類のいずれかか考え、そして自分の行動を次の3つの問いかけから決めていくのです。
3つの問いかけ
1. 自分に望まれているのは何か?
簡単に言えば、どんなお願いをされているか、具体的に掴む、ということです。大事なのは、お願いする側とお願いされる側の期待を同じくするような具体的で簡潔なコミュニケーションを心がけるべきです。
前掲の不正確な批判は大抵の場合「暗黙の了解」が正しく共有されず、それが原因になることが多いと思います。「この書類の体裁を整えておいて、急がないけど」と言うようなリクエストをもらうと私はドキドキします。具体的な内容が欠落しているからです。「体裁を整える」と言うのは読めるようにする、と言うことなのか、特別のフォントを使うべきなのか、また「急がないから」と言うのは今日中に、と言うことなのか、来週でもいいのか、具体性がないので、相手の「暗黙の」期待に応えられなければ、良くて期待外れ、悪くて批判の対象にもなりかねません。具体的に相手の要求を聞き出して、お互いが合意した職務を遂行したいです。
2. 教会が(自分の職場)が自分に期待していることは何か?
職場において、何が自分に課されているか、と考える際に私はいつもAndy Stanleyの語るJob Description vs Job Responsibility (職務 vs 職責)のことを考えます。これはまた別の機会にぜひご紹介して、掘り下げて考えてみたいトピックです。多岐に渡る職務を抱え、高いレベルでプロデュースする事を期待されているので、ともすれば自分の業務が自分の職責となってしまい、支離滅裂なフォーカスを持つことになり、なんでもかんでも120%の努力と時間を費やす羽目になります。(なっていたこともあります)。そうでないと、自分の組織においての存在価値、存在意義が怪しく、不確かになるからです。
職責をクリアに捉えることによって、自分に与えられる職務に取り組むことが筋道立てられるようになりました。この考え方はとても助けになりました。考え方であり、自分の働きについて考えるとき(一体自分は役に立っているのか?)クリアな答えをくれるからです。
職務と職責はなんとなく似ていますが、大きく異なります。職務はタスクです。つまり、自分に任された事をこなす、という事になります。職責は、まず自分の置かれている組織・団体が何をもっとも大事に考えているか(ミッションステートメント=企業理念)をわきまえ、自分が置かれている立場において、どのようにそのミッションに貢献するべきか、を日夜考え追い求める事、それが職責です。
私たちの教会スタッフは職務表を上司から渡されますが、同時に、自分の職責は何か、という文章を一言でかいつまんで書くトレーニングを受けます。
職務は人に任せることも可能ですが、職責は自分が背負うものですので、務める上で絶対に譲れないものとなります。職責は寝ても覚めても心に留められているものです。それは自分の組織・職場の中での存在意義に関わるからです。
例えば、もしある方の職務が「教会の花壇の手入れを定期的にする」、と言うものであれば、その業務が上手く出来たかどうかは、花壇を見れば分かるでしょう。しかし、その方の職責が「教会に訪れる人の心が和むように気を配る」、と言うことであるなら、職責の査定は花壇を見て決めるのではありません。実際に教会に来た人がどう捉えているか、と言うことになります。
ちょっと長々と説明しましたが、職場が自分に期待していること、は組織が何を大事に考えていて、自分はそれを達成するためにどんな役割を担っているか、と言う事をわきまえる事だと思います。
3. 神様の教えに従うということは自分に取ってどういう意味を持つのか?
職場がクリスチャン的であろうとなかろうと、自分がクリスチャンとして、人とどう応対するべきか、自分の勤め先の人々、ひいては職場自体が繁栄するにはどうしたらいいか、神様はどう導いてくれているか、心に留めながら働くことは大事です。「どうせ歯車の一つ」などと大きな会社で働いていると感じてしまわないでしょうか?どんなに大きな職場で、自分の任されている部分はほんの一部に過ぎなくとも、自分の周りの同僚や、仕事先で関わる人たちが恵まれるよう、自分に何ができるか、と考えたらどうでしょうか。
以前に想うことのブログに書きましたが、神様の働きは教会だけで行われるのではありません。私たち一人一人の置かれている場で、私たちを通して行われるのです。なぜかと言うと、私たち一人一人は、「王」であり(この世界を治める)「祭司」である(この世界で神への礼拝の差し渡しをする)と聖書にはっきりと書かれているからです。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
ペテロ第一 2:9
最後に。。。2020年に向けて
2020年に私が導かれているのは、この#3のポイントについてもっとこのブログで取り上げることです。日曜日には教会で積極的に礼拝を捧げている自分を見ると、ああ信仰があるな、と思えても、月曜から金曜の職場・家庭・置かれている場所での自分にはその信仰がまるで影響をもたらさない、そんな風に感じることがないでしょうか?おかしな話ですが、良く起きることです。私も経験しました。「ハッ」と気づくと一週間神様の「か」の字も考えずに過ごしたこともあります。どうして日曜の信仰と平日の生活に溝があるのでしょうか?
日本語 Bible Study では、新年から月に一度のベースで、「ReFrameリフレーム」と言うコースを動画で紹介します。そのテーマはまさしく、日曜の礼拝・信仰はどうして平日の生活に反映されていないのか、どうしたらいいのか、と言う点でした。
これはバンクーバーのリージェントカレッジが提供していたコースです。2015年に私の教会でDavid先生がこれを教会学校に取り入れて教え、私もその講義内容を受けて、それを日本語アルファに参加してくれた人たちと、アルファのフォローアップのコースとして2016年に半年かけて一緒に(内容はかいつまんだものでしたが)学びました。今回は、原作のビデオシリーズが、インターネットで無料でストリーミング出来るようになったので、そのビデオに日本語のキャプションをつけ、その当時に付けた素材やアイディアなども交えたいと思います。
2020年はぜひ皆さんも私も信仰の目がもっと良く見えて、それが行動に反映されたら、と願います。ちなみに、英語で2020を”Twenty-Twenty”と発音するのですが、それは視力を表す表現にもつながります。日本語的に言ったとしたら、両目1.5、というような時に、あなたの視力はトゥエンティー・トゥエンティー。。つまり良く目が見える、というのです。信仰の視力も2020になるよう願い求めましょう。