人生という道の分岐点といえるでしょうか。私たちは毎日・毎日何かしらについて判断し決断しながら生きています。小さい決心から大きな決心まで様々ですね。その決心をする場所が分岐点、クロスロードです。進学について、結婚について、就職・転職について、どこに住むか、など大きな決断が必要な時に来ているかも知れません。
また、聖書を読み、教会で御言葉のメッセージを聞いたりして、自分の信仰の歩みにおいて、神様が何かを促していることに気づく時に来ているかも知れません。
「今日はあなたはクロスロード・人生の岐路に立っています。今どうしたらいいのでしょうか?」
CAチャーチのメンズレトリートで講師のリージェント大学教授のジョージ・ガスリー先生は集まった50人ほどの男性たちにこう問いかけました。
二泊三日のレトリートの学びの部分のテーマは “Finding Our Bearings (自分のいる場所はどこであるかを見出すこと)” でした。パンデミックでチグハグになってしまった人生の道程において、自分はどこに存在し、そこで今どうすれば良いのか、という内容でした。そのメッセージの一つで先生はクロスロード・人生の岐路について語ったのです。ガスリー先生は自分の人生の上での決断の経験を踏まえ、自分はいつも大きな決心を迫られる時はこの聖書の箇所に戻ってくる、と言って、出エジプト33章から引用しつつ語りました。以下は私が理解した大まかな内容です。
神様の前に素直に心を開くこと
まず最初に肝心なのは、もし神様が語っている、ここが決心をする時だ、と察知したならば、素直に心を開くべきだ、ということです。しばしば、「いいやこのままでいい、神様は本当に何か語っているのか?、また今度考えよう」などと導きの声を押し殺してしまうことがありませんか?そうすると何が起きるかというと、心が少し硬くなるのです。それを繰り返していると心がどんどん硬くなり、神様の声が益々届かなくなっていきます。ぜひ手のひらを広げて神様からのメッセージに応答したい、と神様に答えてください。
神様の臨在
さて、モーセと神様との対話から何を学びとれるでしょうか?二つの言葉に注目します。それは、神様の臨在と神様の道です。33章はモーセの信仰の歩みの危機とも言える場面です。神様は、モーセとイスラエルの民にこう語ったのです。
「1 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」
出エジプト 33:1-3
つまり、神様はモーセに、私は約束を果たしあなた方が約束の地に入ることが出来る様にしよう。しかし、そこには私はいない、と語るのです。君たちはもう好きにしたらいい。私は一緒には行かないよ、と言われてしまったのです。これはクライシスですね。今までずっと共にいて導いていてくれた神様があとはご自由に、と言うのです。
モーセと民はこの危機的な状況においてどう反応したでしょうか?確かに素晴らしい約束の地が用意されていて、そこに安全に間違いなく入れる、というのですから、悪い話じゃないな、と思ったでしょうか?
モーセはこの神の言葉を民に伝えると、民は、「この悪い知らせを聞いて悲しみ痛み」とあり、モーセがそれまでに民に語っていたように、悲しみと痛みを表すために飾り物を一切身につけないようにしたのです。民が悲しみ、痛みを感じたのは、神様との関係が途絶える、と言う点でした。
人間は人生において確かに色々な業績をあげ、努力の成果があちこちにあることでしょう。しかし、最終的に人々が大事にするのは人との関係、特に愛する人との関係でしょう。ここでイスラエルの民は神様からの賜物。。。約束の地よりも神様ご自身との関係がもっと大事であったので、それが断絶されると言うことに深い悲しみと痛みを覚えたのです。
クリスチャンとして、私たちも神様との関係は言わずもがなの大事な関係です。何をするにも、教会や自分の信仰生活の上で、神様のご臨在を常に祈り求めるのです。民はモーセが会見の天幕で神様と面会する際に自分達のテントからそれを伏し拝んでいたと聖書は書いています。神様が彼らにモーセを通して何を語るのか、礼拝の心と態度で受け入れる準備があったのです。
神様の道
しかし、神様の臨在、そして神様の力あるわざを心から祈り求めるのですが、もしかしたら、知らないうちに、その祈りの気持ちが、神様が自分にしてくれるパワフルな経験・体験だけに集中してしまうかも知れません。イスラエルの民はこの33章の前では何度も神様の前にしくじりを行います。神様の臨在は喜ぶが、神様の示す生き方、神様の道は選び取らない生き方をしたのです。ですから、神様は、もう言うこと聞かないなら、あとは自分で好きにしなさい、と言っているようです。
簡単に言うなら、神様の道は、自分の誤った生き方を悔い改め、神様が示す通りに従うことです。続くモーセの言葉にクロスロードでの生き方に活かすべきポイントがあります。
「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。(13節)」
モーセと民は神様の臨在を求めたのです。しかし、それには神様の道を歩まねばならないと悟ったのです。そしてそれを通して、神様と関係を持つことが可能になる、と言うことを告白したのです。
ついつい神様の手の技を望み、神様の臨在を求めてはいても、神様が導き示す神様の道、すなわち悔い改め、へり下り、従うことには消極的だったりします。しかし、モーセと民は臨在は服従と一体でなければならないと分かったのです。そしてモーセに対し、神様は、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」と語りました。
イエスの次の招きの言葉がどうか心の深いところであなたに語りかけてくださいますように。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげますわたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイ伝 11:28-30