クリスマスまでの4週間を待降節と言いますが、待降節第2週、 12月10日のCA Church の礼拝説教から教えられ、想わされたことを紹介します。
闇と光
「闇」と「光」 と言うテーマはこのクリスマスの時期のみならず私たちの周りに多 く見受けられます。聖書の出だしも、闇があり神が光よあれ、 という箇所があります。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。
創世記1:2−3
本を読んでも、映画を見ても、ニュースも、 闇と光のテーマが溢れています。これほどまでに隅々までこのテーマが浸透しているのには理由があるのでは無いでしょうか?それは、この世には闇が多く存在しているからです。
不安と恐怖心に苛まれている人達があまりにも多いのも現代の特徴でしょう。前進する事も出来ず、しかし停滞を厭うのです。にっちもさっちも行かず、八方塞がりな状態になっています。
だからこそ、この世には深い、心の底からの「光」に対する叫びが聞こえるのでは無いでしょうか?光に視野を与えてもらい、現在地点を示し、進むべき道を照らして欲しいのです。
イエス・キリストが世の光
イエス・キリストは自分を世の光と呼びました。聖書の様々な箇所で光について書かれています。
ヨハネ8:12
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イザヤ9:2
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
イザヤ42:6
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
ヨハネ1:4−10この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
コリント第二4:6
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
光に付き従うなら、どんなことが起こるでしょうか?
世の光、イエスキリストについて行き、従うならば
1. 神様について正しい理解が得られます
ヨハネ14:6−7
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
2.自分達の破れた現実があからさまにされます。誰しも心には光を嫌う闇があるのです。
ヨハネ3:19−21
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
3. イエスの恵みによって闇から光に移され、生きる道が闇から光の中に変わります。
使徒の働き26:15−18
私が、『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らの罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
4. 創造され、贖われた自分の本来の生きる目的がはっきりします
ペテロ第一 2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。
コリント第二 5:18−20
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。