バプテスマのヨハネが、来るべきキリストはイエスである事を断定して語った次の日、イエスが再び姿を現されました。歩いていかれる姿を眺めながらヨハネは叫んだでしょうか?それともつぶやいたでしょか?、再びヨハネは「見よ。神の子羊」とイエスについて証言します。 ヨハネのそばにいた二人の弟子は、それを聞いてイエスの後を付いて行くところから、イエスの働きの話が発展していきます。この時、イエスの後を歩いていった弟子はこのヨハネ伝の著者のヨハネ*、それからアンデレでした。この二人がイエスの初めての弟子達となろうとしています。さりげないこのシーンの何行かの文章は、実に「教会時代」と言う神の新しい契約の時代が芽を出す場面である事に気が付かされないでしょうか。
*(ヨハネがいつも自分が登場する時は名前を控えていたり別の呼び方をする習性があった事と、この時以外にヨハネがイエスと出会った場面は書かれていない事などから推測されています。)
尾行する二人に振り返って、イエスが問いかけます。「あなたがたは何を求めているのですか?」この言葉には、「何か用かい?」よりも深い意味がある様にです。 恩師ヨハネからイエスについて聞かされる事だけでは満足できなかった二人は、イエスを直接知りたいと言う気持ちで、イエスに近づこうとしています。イエスはその彼らの心を慈しむまなざしで、質問の形をもって彼らに話しかけられたのではないでしょうか。 彼らの答えは、39節の「ラビ(先生)」とイエスを呼ぶ所に込められていますね。真理を教えて欲しい、神に近づきたい、と言う気持ちからイエスを「ラビ」と呼び、「個人的にあなたを知りたい」と言う意味から「今どこにお泊りですか?」と尋ねたのは、相手の家に行く事が連絡を取り合う主流の機関だった時代だったからでしょう。イエスは彼らを招いて、「来なさい。そうすれば分かります。」と言います。 これは深い意味でも読み取れますね。イエスと言うお方を深く知りたければ、遠回りに分析するのではなく、個人的にイエスの招きに応じて近づく事が重要です。
さて、40節でアンデレを「シモン ペテロの兄弟」として紹介されています。シモンは後にイエスと出会った時、岩を意味する「ペテロ」と言う名をイエスから授かり、イエスの一番弟子として知られる様になり、やがては初代教会のリーダーとして立てられます。 アンデレは、ペテロの影に隠れてしまうように思えますが、注意して福音書を読むと彼が人をイエスの所に連れてくると言う、目立たないけれども重要な役目を何度かにわたって果たしているのが分かります。 尊い使命です。
イエスの宿泊先に行って彼と時間を過ごした結果、イエスに対する確信を得たのでしょう。まずアンデレは兄のシモンに、自分とヨハネが来るべきキリストに出会ったと告げます。ここに彼らが皆それまでの間、熱心に預言を信じ、キリストが来るのを待ちわびていた事が読み取れるのではないでしょうか? アンデレは上手に説明できなくても、とにかくイエスの元に連れてくればシモンは理解できるであろうと思ったのでしょう。シモンを引っ張って来ている様子が想像できます。
シモン(ペテロ)とアンデレ、そしてヨハネもこの時点では、漁師をしてた事もあるのか、専業でイエスに付き従う姿勢ではなかったようで、後にイエスが再度彼らを呼びかけられるシーンを読む事ができます。(マタイ1:16-20、ルカ5:11)
次にイエスが直々にピリポと言う青年を見つけて、御自身に付いて来る様に呼びかけます。この時ピリポはイエスと面識があったかはわかりません。初対面であったなら尚の事、ピリポの心の中に何が起きたかが興味深いものです。弟子達一人ひとりが、このイエスという名の人物を信頼して、全てを捨ててついて行く決心をする事は常識からみると、大きなリスクを伴う事と言えます。しかし、聖霊が心に働いてくださったので、この方が神から来られた方である、信頼できる方である、ついて行くべき方であると理解できたのです。*
*Ⅰコリント2:14、12:3
適用:
あなたは、イエスキリストがついて行くべき方であると理解していますか? もし、そうでなければ、理解したいと思いますか? 思うなら神様にその事を話して見て下さい。神様は必ずその祈りに答えてくださるお方です。