49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
54 群集にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」
ルカ 12:49-59
分裂?(49-53)
この最初の箇所(49-53節)は弟子達に向けて語られました。54節で「群衆にも」と書いてあるところからそう考えられると思います。
イエスの言葉は心を騒がせます。「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」ルカ2章で御使たちがイエスの生誕を伝える賛美を「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と歌いました。預言者イザヤは、「平和の君」とイエスを預言しました。イエスは常に値しない人々への神の愛と神との和解からの平安を説き、人々を癒していました。それではこの箇所をどう捉えるべきでしょうか?
12章のおさらい
ルカは(もちろん聖霊の導きによってですね)12章を通してイエスの警告を語っています。カペナウムからエルサレムの十字架の死の道のりを歩み始めたイエスにはその重みが日毎にまし加わっていったのでしょう。イエスは父なる神の御心に忠実に従っているのです。それは、イエスに全世界・全人類の現在・過去・未来の全ての罪を十字架の上で負わせるというとんでもない計画でした。
恐れるな。財産に頼るな。常に用心せよ。そんな警告がありましたね。イエスはアイデンティティーについて、生きる目的について、そして忍耐強い信仰について語りました。その上での、そして今後必ず起きるイエスへの究極的な迫害、信徒に対する持続的な迫害を見据えて、今回の「火をもたらす。分裂を及ぼす。」という言葉につながるのです。
つまり、イエスは、自分に信頼し、信仰の道を歩み、ますますイエスのように生きる時、結果として見えてくるのはまさに分裂であり、火が燃えているような状態だ、と語っています。ルカの11章でイエスはこう語っていました。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。(ルカ11:23)」
分裂を目の当たりにして
私は海外でクリスチャンになり洗礼を受けたのですが、日本の家族にそれを手紙で知らせました。まだ国際電話はべらぼうに高額で、Eメールは存在していない時代のことです。自分の思いを伝えるには直にあって話すか手紙かでした。長々と手紙を書いたのですが、両親から電話があり、「まあ、それはそっちにいる間だけだからね。文化のひとつだね。」というようなコメントをされがっかりしたことがあります。強烈な反対というより肩透かしを食らった感じでした。でもそれから数年後のことですが母親がポロッと「あんたを神様にとられた」と何かの拍子に言ったことがあります。自分よりも親達の方がこの分裂を強く受け止めていたんだと思ったのです。
あなたも職場、恋愛、結婚、友人関係、さまざまなところでこの分裂を体験しているでしょう。イエスは自分に従うとそうなることは必然だ、と語っています。
リアクション
すると二つのリアクションが考えられます。「イエスが従え、と言っているなら100%そうして、人から嫌われようと、何しようとこの世と断絶しようという生き方を選ぼう」とするかも知れません。「回避」です。あるいはそれを嫌って、「周りの文化を取り入れて仲良くしようじゃないか」、と世の中と歩みを合わせる生き方を選ぶかも知れません。それは「迎合」です。
回避も迎合もいずれも排他的です。回避は世の中を排除し、迎合はイエスを排除するのです。聖書は世の中と隔絶せよ、とは教えていません。しかし世の中と同調するな、と教えています。イエスに100%従うことは正しいです。イエスはそうするなら世の中を敵に回すことになり、家族・友人もその中にいることになる、と言っているのです。
回避や迎合はある意味シンプルで理解しやすいです。ですからそのどちらかを選びたくなります。しかし、第三の生き方があり、私はイエスはこの三番目の生き方を示してくれていると思います。それは世の中を船が荒波の中を航行するように進む生き方です。私たちは聖書を通して語られている神の壮大な贖いのストーリーの中に生きています。聖霊により宣教を続けているのです。このストーリーに置かれている信徒は回避と迎合という両極端な道に進むのではなく、忍耐強く、日々の生活を通して神の贖いのメッセージをこの世にあって伝えるのです。
この第三の生き方については当ウエブサイトに掲載しているREFRAMEのコーナーで詳しく取り扱われています。私たちがイエスに出会い、喜び、歩みを共にしておりながら、世の中の患い、拒絶などを経験するうちにイエスを見失ってしまい、日曜の教会生活を続けていたにしても、毎日の生活ではあたかも神は存在していないかのように生きてしまいます。どうしたら信仰が日々の生活にも浸透している生き方ができるだろうか、ということが命題となったコースです。興味のある方はぜひそのコースの内容も参照して見てください。
今のこの時代を見分ける (v56)
54節以降は群衆に向けて語っているようです。イエスは、イスラエルはこの時代を見分けていない、時間がもうあまりない、と切羽詰まっている様子が感じられませんか?空の様子から天候を見分けられるのに、周りで起きていることに無頓着で神からのメッセージに鈍感になっていてはいけない、と警告しています。和解の時は今だ、と告げてくれています。これを逃すと神様の裁きを免れることは出来ない、ひどい状態になってしまう、というのがイエスの警告でした。
現代ではどうでしょうか?イエスの警告は当時のイスラエルにだけ当てはまるのでしょうか?私たちは現在、聖霊によって教会が宣教の働きをしています。使徒の2章で聖霊が信徒に降り、イエスを信じたユダヤ人だけでなく、異邦人にも同様に聖霊が降っています。そしてイエスの証人として神の贖いのメッセージを伝えています。その私たちにも同様に現代を見分けることが出来なければなりません。イエスは平安を約束しています。イエスがこの世に打ち勝ったからです。しかし、イエスは安寧を約束しているのではありません。イエスにつく者は必ず患難が待ち受けているのです。その時、その状況を見分けて、神の御国が天にあるごとく、地にもなされるのには自分は、信徒の交わりの教会は、何をするべきかを選び取りながら生きて行くことをイエスは警告と共に命じているのです。
ルカの福音書はイエスの生誕の様子、イエスの宣教開始の様子から、弟子達の宣教活動の成功などある意味私たちの心に励ましを与えてくれるメッセージで満ちていました。しかし、十字架が近づけば近づくほど、イエスのトーンは益々警告に満ち、今行動しなければ手遅れになる、という逼迫したトーンが増えて来ています。
当ウエブサイトの「想うこと」で以前に紹介した聖句があります。エペソ人への手紙でパウロはこう書いています。
「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」(エペソ5:15-17)
「よくよく注意し」はあたりを見回す、というニュアンスがあります。賢い人は物事を見極める、見分ける知恵があります。機会を生かすということは無駄に時を過ごす、無頓着に生きることの真逆です。
パウロはこの節のすぐ後に「聖霊に満たされなさい」と書いています。聖霊の導きと助けがなければイエスが何を今語っているかも悟れず、世の動きも見分けられません。私たちの取る行動も聖霊に導かれていなければ無駄な動きが多くなってしまうでしょう。