1 そうこうしている間に、おびただしい数の群集が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。 2 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

ルカ 12:1-12

恐れ・不安

先日、わたしの敬愛してやまない主にある兄弟がストレスと不安に苛まれ、療養生活を送ることになりました。不安や恐れは肌で感じ、身を持って現実に体験する根の深いものだと思います。クリスチャンであれば不安や恐れは感じない、と考えるのは誤解です。不安や恐れはリアルで根が深い問題です。毎日毎日が戦いのことも多いでしょう。ただ、唯一、クリスチャンに与えらている強みは、神様が共にいること、そして失望・失意に打ちひしがれたままでは終わらないことが約束されていることです。

イエスは、今日のセクションで恐れについて、何を恐るべきか、イエスに従って生きている時に遭遇する困難な時でも、どうして恐れなくて良いか、語っています。

不安に関する統計調査

日本の統計を調べてみました。セコム株式会社の統計調査がよく知られているようです。2021年10月に、全国の20代以上男女(20-29歳、30-39歳、40-49歳、50-59歳、60歳以上/男女各50名の計500名)を対象にし、「日本人の不安に関する意識調査」が実施されました。これは過去10年続いている統計調査です。統計調査開始から10年連続で7割以上が「最近不安を感じている」と回答し、中でも男性50代、女性20~30代がより深く不安を(彼らの8割)感じていると発表されました。

心配は無用

イエスはマタイの福音書6章で、集まった群衆に対して神の御国とは何か、そこで生きるということはどういうことか具体的に説明した箇所があります。それは全てを創造した神を信じ、信頼して毎日を過ごす、というものでした。そしてそれは、修行をつんだり、人前で正しく振る舞う、ということではありませんでした。神は全知全能で、善きお方と讃え、神様によって養われるという平安の人生を指しています。

「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイ6:32-34」

今日のルカ12章の箇所もそこに通じるところがあります。私たちは神様を信頼するべきであって、その証拠は安く売られてゆく雀さえ、そして私たちの髪の毛一本一本も神様に覚えられているからなのです。そして、私たちは生け贄としてして買い叩かれる雀よりも遥かに優った存在だからです。神様は私たちをその似姿に創造されたからです。

どんな心配?

ちょっと逆回りになりますが、では何を私たちは心配するのでしょうか?セコム社の統計調査では疫病、老後の生活、安全、などが上位を占めているようです。

イエスの弟子達や、取り巻き達はおそらく、イエスの言動が「過激」で当時の権威の主流であったパリサイ派のリーダーや、律法学者を怒らせていたことに不安を覚えたのではないでしょうか。ルカが前回の箇所で伝えているように、イエスに敵対する者達はどんな方法を使ってでもイエスの足を引っ張ろうとし始めたのです。「激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻め」が始まったと書かれています。そんなことを目撃していたので、弟子達や周りの者達は、自分がもしそんな彼らに捕まって、追求され糾弾されたらどうしよう、と不安にかられたのではないでしょうか。だから、敵対するリーダー達の偽善を公然と暴いた時に、これからどうなるんだろう、と詰めかけて来たのも頷けます。

恐れるか恐れなくていいか

イエスは、簡単に、命を奪うもの達を恐れてはいけない、と言います。神様を信頼し、イエスを告白し続けるなら、必ず天国でイエスに受け入れられるからだ、と励まします。

イエスは弟子達や取り巻きに対して、イエスに対する反撃や弟子達に対する迫害はこれからもっと強くなると知っていたのです。

イエスは、弟子達が捕まって取り調べを受けても恐れるに値しない、と言います。なぜなら、イエスを導いている神の聖霊が同様に彼らを導いて、必要な言葉を与え、語らせてくれるからだ、と励ましています。

イエスをそしる罪と聖霊をけがす罪

マタイ伝12章そしてマルコ伝3章でイエスは同様の宣告をしています。

「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます(マルコ3:29)

「 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

この2ヶ所はいずれも、イエスの働きに対して、「「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」」と語った者達に対して向けられています。善を悪とし、悪を善とすること、神の働きを悪魔の働きと冒涜する者達に対して宣告されました。

こういう裁きの言葉を読んだり、説教で耳にしたりすると少なからず動揺しますね。完璧な人間は一人もいませんから、何かしらの拍子に絶対許されない罪を犯しちゃったのではないかと心配になりませんか?

NTライトはルカ12章での同様のイエスの言葉について次のように語っています。

イエスの働きを見て、誤解して彼のことをそしることがあっても、本当の事に気付けば、悔い改めるでしょう。しかし、聖霊の働きを非難するなら、そんな人はまさに拒絶する行動によって聖霊の働きからの恩恵から切り離されるのです。新鮮な水の泉が実は汚染されている、と公言するなら、その泉からは飲むことはもう出来ないのです。一つ間違いなく言えることは、もし誰かが聖霊に反して罪を犯してしまったのでは、と不安に思うのであれば、取りも直さず、それは彼らが罪を犯していない明らかな印である、と言えることです。

Someone who sees Jesus at work and misunderstands what is going on may speak against him, only to discover the truth and repent. But if someone denounces the work of the Spirit, such a person is cut off by  that very action from profiting from that work. Once you declare that the spring of  fresh water is in fact polluted, you will never drink from it. The one sure thing  about this saying is that if someone is anxious about having committed the sin  against the Holy Spirit, their anxiety is a clear sign that they have not.  

(N.T. Wright, “Luke for Everyone”)

今日のクリスチャン

クリスチャンとっての信仰の歩みは、礼拝に通う日曜日だけはありません。ルカが今日伝えているように、イエスはエルサレムへの道を進めば進むほど彼に敵対するものの言動はますます激しく、強固になって行くのです。イエスに従って歩んでいる弟子達も、また取り巻き達もそのことを肌で感じていたでしょう。このままついて行ったらどうなるんだろう、と不安に感じたはずです。

私たちも今日クリスチャンとして生きている上で、もっともっとイエスに親密に従って歩めば歩むほど、同様に反対勢力の妨害や、不信・不安を覚えるのです。そんな時、イエスは必ず、「恐れることはありません」と語り、聖霊の働きによって、神の恵みと神の大きな愛を思い起こさせてくれるのです。聖霊の助けは全てを覆い尽くし、全てに打ち勝つくらい強く、自分の隅々の細かいことまで知られていながら、神様の恵みが浸透していることを教えてくれます。

ヘンリ・ナウエンのデボーションをシェアします。原文はデボーションのウエブサイトをご覧ください。https://henrinouwen.org/meditation/my-true-identity/

ヘンリ・ナウエン曰く、彼が導かれて働き出した成人障がい者施設では、彼が利用者の方々に好かれるかどうか、ということや、どんな風に彼らを助けるのか、といった事に対しては、それまでの学歴、経歴、執筆活動などからの名声などは一切役に立たないと感じたそうです。まるで、新しい人生をスタートしたようだ、と語ります。利用者に関わる上で、現在の自分、自分のアイデンティティーに全てがかかっている、と思うと、それは不安を掻き立てるのでした。この経験から、彼は、何かできる、何かを示せる、物事を証明できる、構築出来る、というようなことに頼るのではなく、自分は単にか弱い存在であるが、愛を受け、愛を与えられる事にオープンである、という真理を取り戻す事なんだ、とわかったそうです。

今日不安にかられているならば、神様があなたをどう見ておられるか、あなたのアイデンティティーは神様の言葉にある、と覚えてください。「あなた方は雀よりもすぐれたものです」と言うのはあまりに単純に聞こえますが、髪の毛一本一本を、つまり心の深くまでご存じの神が語る真実なのです。また、イエスに従って歩み、そのゆえに苦しむのであれば、イエスはあなたのその苦しみをすでに理解している上で、「恐れなくていいのです」と励まします。クリスチャン一人一人に宿る聖霊があなたに寄り添って、神の真理を示し、神の道を歩めるよう助けてくれているのですから。