今週の日曜礼拝の説教の中で、”downward mobility” 「下降移動」というフレーズが出てきました。文脈は、イエスの十字架についてです。天地の創り主、神の御子が、人類の体験する一番深い苦しみ、痛みの極みまで体験して、理解してくれている、それは、イエス様が上から下に降りてくれた、十字架にかかってくれた、ということで明らかである、ということでした。
ピリピ人への手紙 2章6~8節
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
社会学を勉強していた時に(もうものすごく昔ですが)upward mobility という言葉は覚えました。社会において、どんな低い階級にいても、その社会にあって実力をつければ上の階級にあがってゆける、ということを表すと確か学びました。つまり、頑張れば上がっていける、ということです。
どんどん昇進して、もっと稼いで、もっと高い地位に就き、もっと権力を手にしたい。。。と書くと何か傲慢な人間の望みのようですが、「自分を高め、自分の可能性を開くために地歩を得るよう日常努力しよう」というとなんと秀才的な考え方だ、と思うのではないでしょうか。私の育ち方も「努力は必ず報われる」、だから、「何にでも根気よく取り組む」ということを美徳とし、目標とするようにだったと思います。
しかし、キリストの十字架は、この自分で築き上げた、「上昇移動」の結果の地位は無意味になる、というのです。「上昇移動」がイエス様とすり替わっているからです。
一番の解毒剤は「下降移動」です。いつでも神様からの声に応答して、移動できる心を持つことです。パウロはガラテヤ人への手紙でこう伝えています。(ガラテヤ2章20節)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
イエス様は、彼につき従って、いのちを、豊かな人生を見出せるように、罪という束縛から解放するため十字架にかかってくれたわけです。
ディートリヒ・ボンヘッファーは、こう語りました。
“When Christ calls a man, he bids him come and die.” 「キリストが人を召命するということは、その人にイエスのもとに行って命を投げ打て、ということなんです。」
イエスはこう語ります。
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 (ルカによる福音書9章23節)
イースター(今年は4月1日です)を控え、十字架は今自分に何を示し、迫ってきているのかを想わされた日でした。