今年はいくつかのお葬式に参列しました。どんなお葬式も、悲しいものです。今まで生きて一緒にいた愛する人がいなくなったのですから。特に重い病気と闘ったとか、突然の事故とか、麻薬を断ち切れずに過剰摂取で命を失ったという方たちの家族の悲しみは計り知れません。
長い闘病生活の末に力尽きたり、重傷を負って結局意識を回復できずに亡くなったり、麻薬濫用からなかなか立ち直れず最後は麻薬の打ち過ぎで亡くなったり、そういう中で、家族や友人たちは、きっと良くなる、助かる、という希望を持とうとしたけれども、残念ながら希望は叶わず、愛する人は亡くなった、という方たちのお葬式が相次いでありました。
キリスト教の葬式では、牧師はしばしば「希望」について参列者に語ります。生前の希望が叶わなかったのに、今、どうしたら希望を持てるのでしょうか? 失意にある、希望を失ったものたちに対して、クリスチャンは、希望を語れるのでしょうか?
死は現実の出来事です。取り繕うことはできません。
墓地で行う埋葬式では、キリスト教の場合、牧師が地面に下ろされた棺桶に向かって、「”Ashes to ashes. Dust to dust.” 灰は灰に、ちりはちりに」と聖書の箇所を引用しながら、砂をふりかけます。以前にも紹介しましたが、イエスの復活祭に向け、祈りと断食に費やされるレントの期間の最初の日、灰の水曜日には宗派によっては額に十字架の印を灰で書いて、「メメントモリ(死を覚えよ)」、つまり自分は必ず死ぬ運命にあることを覚え、イエスの十字架を身をもって思い起こそうという儀式があります。人はいつか死ぬ、という一般論が、自分はいつか必ず死を迎える、という固有の体験になるわけです。
今回の想うことは、あるお葬式の牧師のメッセージの抜粋を抄訳でご紹介します。少々長いですが、あなたの周りに、またはあなた自身が悲嘆にくれたり、混迷の中にいたり、苦しんでいるなら、ぜひ心をイエスに開いて読んでみてください。
テサロニケ第一の手紙の4章13節以降にこう書いてあります。
「13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。。。。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
キリストにある希望においてお互いを慰めるよう聖書は語っています。悲しみは現実ですが、この希望が必ずその背景にあることを忘れてはいけないのです。希望を持って悲しむことと希望のない悲しみは大きな違いがあります。
しかし、確かに希望がありますが、それはこの悲しみの時が簡単に過ごせやすくなるということではありません。いた人がいなくなったのですから、ポッカリと穴が空いてしまったのです。ああ、あの時こう言っておけばよかった、とかああしてあげればよかった、という悔恨の気持ちや、なぜ、どうして死んでしまったのか、という疑問の心も起きてくるでしょう。
それでも聖書が教えているのは、そんな疑問の嵐が渦巻いても私たちは吹き飛ばされません。私たちがイエス・キリストに根づいているからです。私たちは希望にしっかりといかりをおろしているからです。
ヨハネの福音書にマルタとマリヤという姉妹が出てきます。イエスの親友たちとも言えるでしょう。彼女たちの兄弟のラザロがあるとき重い病にかかり、亡くなってしまいます。姉妹たちはなんとか重病のラザロの元にイエスに来てほしいと懇願したのですが、甲斐なく彼は死んでしまいました。悲嘆にくれる彼女たちの元にイエスは現れます。マルタに対して、イエスはこう語りました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ伝11章25-26節
イエスは簡単に言えばマルタに、「大丈夫だ」と言っているように思えます。ただ、ここでは、イエスは、「大丈夫。全部なんとかなるから」とは言っていません。彼が権威を持って、そしてご自身の十字架を見据えて教えておられるのは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」という事実なのです。単に大丈夫だよ、と言っているのとは大違いです。イエスはマルタに、そして私たちに、人生の最も深い奥義の答えは私です、と語っています。死に直面したあなたにとって、私こそが今ここにいる答えなのです、と語っています。
そして、イエスはマルタに、またわたしたちに問いかけています。「あなたはこのことを信じますか?」
もう一つ忘れてはならない点がこのストーリーにはあります。それは悲嘆にくれる姉妹たちや親友たちのところにやってきたイエスは、涙を流されたのです。
私たちが崇拝する神は痛みと苦しみを分かってくれるのです。イエスは私たちの悲しみと痛みにご自身が足を踏み入れてくださいます。遠くから、「大丈夫だよ、って言っておいたよね」と呼びかけるのではないのです。イエスは私たちの感じている苦しみや悲しみを同じように味わってくれるのです。イエスは悲しみの人、と呼ばれており、苦しみを理解してくれるのです。ですから、今、私たちはイエスに私たちの体験している悲しみや苦しみの中にお呼びすることができます。
イエスは今日のようなお葬式の時に、単に言葉で希望をもたらすのではなく、この場に居て、彼が希望となって共にいてくださるのです。憐れみと涙と愛を持ってあなたと共におられるのです。あなたの悲しみをよく分かってくれます。あなたが大切な方を失ったことを理解してくれます。混乱の中であなたに寄り添います。痛みを感じ取ってくれます。私たちが心を開くなら、私たちの最も深い悲しみや痛みの中でわたしたちに出会ってくれるのです。
だからこそ、私たちは死の陰にの谷を歩んでも恐れないのです。どうしてでしょうか?イエスは私たちと共にいらっしゃる神だからです。私たちから決して離れず、見捨てない、と約束してくれているのです。愛と慰めを持ってわたしたちに寄り添ってくれます。どうか今日この時あなた方がまさにこのようにイエスの臨在を体験できますように。