みなさんは通知表を覚えてますか?特に小学校のころのです。優良可への評価もさることながら、先生からのコメントは褒められたものだととても嬉しかったことを覚えています。カナダの学校の成績表にも、子供たちに対しての先生からのコメントがありますが、はほぼたいていの場合、褒め言葉で一杯です。
ヨハネの黙示録の始めに、イエス様が7つの諸教会に対してコメントしています。何か通知表っぽいと思います。ここでの7つの教会は当時の教会を直接的に指していますが、現代の教会、信仰についてもちろん当てはまります。 エペソにある教会に対してはイエス様はこう言います。
「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」 ヨハネの黙示録2:2-3
イエーイ!という感じでしょうか。ところが、イエス様に続けて、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」 (ヨハネの黙示録2:4) 言われてしまいました。 「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」と言うのです。
つまり、この「初めの愛」がないと、なにをしても全くだめだ、というのです。それに戻るにはどこで道を踏み外したか思い出して悔い改める(引き返す)のが必要なんです。
わたしは個人的にこの「非難」がとても身にしみます。なぜなら、私にはエペソの教会の人々と同様に「初めの愛」から離れ、いつしか「行い、労苦、忍耐、たゆまない歩み」が私の原動力になったことがあったからです。(もちろん今でもそちらに流れる傾向があるので注意が常に必要ですが。)
ダレル・ジョンソン師 (Darrell Johnson) 著の「Discipleship On The Edge 」1 の中で、ジョンソン師はアール・パーマーを引用し2、「エペソ症候群」をこう説明しています。(テキストは下段に掲載し、以下は意訳です)
全てうまくいっていおり、活発で、しっかりとしているように見える教会・弟子たちがなぜイエスに非難をあびるようなことになってしまったのでしょうか?
どうしてこんなことになったのでしょうか? 私の友人のアール・パーマー氏はこの悲劇について何よりよく理解していると思います。「エペソ問題は焦点がブレることによって起きます。このブレは密やかに、少しづつ、気づかないように進んでしまうのです。」
パーマー氏は続けてこう語ります。
人はキリストと彼の愛に出会い、信仰を得ると、まずキリスト教会に繋がります。そこで数年クリスチャンとして過ごし、その方が教会の中で指導的立場に立つようになり、教会の群れの中で重責を担うようになります。しかし、そこで何かが起きます。その方は、天賦の才と熱心な奉仕活動によって、教会の政策・人間関係や運営決定権をもつような立場、渦巻きの淵に立つようになります。するとこの人の人生様式がほんの少しブレるのです。つまりキリストの弟子であることから少しブレるのです。知らず知らずのうちに教会組織から、人を言い負かせることによって、あるいは、もっと権威を持ちたいと望むこと、そういったことによって、もっとやる気が出て、それが自分を育てる養分になっていくのです。
こうして、最初の愛がすり替えられるのです。でも、誰もそれに気がつきません。最初の愛は見捨てられてしまい、その代わりに、教会の活動や奉仕が、つまり食生活に例えるなら、炭水化物に溢れた、コレステロール満点の食事内容に変わってしまうのです。このような生活では魂は決して養われません。
パーマー氏は続けて洞察します。
この後半のエペソ症候群に侵されていると、そのクリスチャンは教会の主義や目的といったことだけにかまけるようになるのです。これは皮肉なことです。 しかし、そのような主義や目的はそもそもその当人が教会につながる要因には決してなっていなかった、と言うことなんです。教理の細かい点における論争や、教会を治める上での微妙な分別とか、表立って見える賜物とか、こういったものにかまけるのです。一体何が起きたんでしょうか?これは結婚生活にも起きてしまいます。人間関係一般にも起きます。弟子として生きる上でも起きるのです。
「あなたは最初の愛から離れてしまった。」
わたしには信仰の上でも、家庭でも、仕事でも、すべてにおいてきりきり舞いして、自分が何でもかんでもしっかりやって、頼られて、引っ張って行って、というような時期がありました。全力疾走というと聞こえはいいですが、イエス様は心の内を見抜きますから、彼はきっとものすごい顔つきの私をみていたことでしょうね。 当時はこのエペソ症候群のことなど聞いたこともありませんでしたが、振り返ると、ああ、この症候群って自分にぴったり当てはまってるな、と思います。
あわれみ深い神様は道をあれこれ備えていてくれました。
わたしにとっての「最初の愛」を取り戻す道程はまず ”somebody”(あのスゴイ人) から ”nobody”(え?それ誰)になって、教会で仕えることでした。励ましあえる友人たちも与えられました。イエス様の声も聞こえやすくなっていきました。歩き方を忘れた自分が、もう一度一から歩き方を学び、周りを見ながら一歩一歩踏みしめながら歩き始めたのです。
1. Darrell Johnson, “Discipleship on the Edge” p.60,
2. Earl Palmer, “1, 2, 3 John, Revelation”
ヨハネの黙示録2:1-7(新改訳聖書)
1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
1. Darrell Johnson, “Discipleship on the Edge” p.60, (以下翻訳部分の原文です。)
How does it happen, this loss of first love? My friend Eal Palmer still understands the tragedy the best. “The ‘Ephesus problem,'” he writes, “happens quietly and by gradual imperceptible shifts of focus.” Palmer goes on:
A man or woman is first united with the Christian church because of having discovered and believed in Jesus Christ and his love. After a few years of being a Christian, that person becomes a leader in the church with very heavy responsibilities for the fellowship. But something happens along the way. That person – who, because of giftedness and hard work, may now stand at the vortex of church politics and decision making – experiences a subtle shift in style of life. That person is adrift as a disciple and finds himself or herself motivated and nourished by the organization or by controversy or by ambition to hold power. The firs love has been replaced while perhaps no one was aware of the replacement. The first love has been abandoned, and in its place is the starchy, high-cholesterol diet of activity and church work that will never nourish the human soul. (Palmer, 1,2,3 John, Revelation, 129)
Palmer then makes this profound insight:
The irony of this latter condition of the ‘Ephesus syndrome’ is that the Christian becomes totally preoccupied, fascinated with themes and goals which would have never won him or her in the first place to have joined the church. Arguments over fine doctrinal points, distinctions of polity, exoteric giftedness etc. How can it happen to us? It happens to marriages.It happens to human friendships. It happens to the life of discipleship.
“You left your first love.”