息子たちが通った小学校が立て直されると言う情報を受けたのは三ヶ月程前のことでした。彼らと一緒に泣いたり笑ったりしながら通り過ぎた年月の思い出がこもった校舎がなくなるのかと思うと、心の中で「ちぇー」としょげるのでした。と、そこへ来てもう一つ。二週間前、「何だ、あの大量の黄色い札は!?」と驚いたのは、昔から馴染んできた近所のデパートの天井から閉店セールの札が多く吊るされているのを見たからです。そこでいつも買い物をしてきたわけでは無いのですが、時代を感じさせる建物でもあり、自分もまた一時はパートで働いた場所でもあるだけに「そんな…」と、校舎建て替えの寂しさに追い討ちをかけられたのでした。この二つの「寂しい」変化は実のところ、私たちの次男が三ヶ月前に家から一人立ちして、先日には激愛してきた婚約者とついに結婚に辿り着いたという、大きな恵に溢れた喜ばしい変化の只中でのものでした。寂しいものでも嬉しいものでも、この世に生きる限り「変化」と言うものは絶えないのだと感じさせられている数ヶ月です。
自分の生きてきた環境、愛する対象の人たち、そして積み上げてきたものなどにまつわる変化は、土台が揺らされている感覚にもなります。五感の世界を生きる間、人というのは自覚する以上にこれらのものを自分自身の「土台」にしている、つまりそれらをもって自分の人生を定義しているものなのだと教えられます。身の回りの変化だけならまだしも、私たちには度々「試練」と言うものが襲ってきます。それらの中には大きなもの、長期に渡るものもあります。こういった多くの事柄に心が影響される時、この地上で置かれている五感の世界は全て一時的である事と、私には動かず変わることのない、「永遠の土台」がある事に心を留めるよう聖霊がその都度に語ってくださいます。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べる事ができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」
マタイ 7:24-25
岩の上に家を建てるとは、永遠に変わらないお方であられるイエス様の御心を生きる事によって、永遠なる主イエスと言うお方を土台に人生を建てあげる事を描写しているのです。そうする時、どんな状況の中でも土台が揺れ動くことなく、「神に従った」と言う永遠の業績を残す事ができるのです。それが、主イエスが言われる「天に宝を積む」事で(*)、どのような形で積まれているのかは、天国に行くまで分かりません。でもそれを楽しみに待つ事は、この世界で希望を持って生きる力を与えてくれます。 変化や試練が来る時、自分がしっかりと「永遠の土台」に立っているかを再確認する事が大切なのだと思わされています。 いつもこの結論に辿り着く時に神様が下さる平安が心に戻るのです。
* マタイ 6:20-21
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、目に見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
Ⅱコリント 4:17-18