お知らせ
このブログシリーズは、リージェントカレッジのリフレームコース及び、CA Church で開催された文化と信仰のコースを基にして作成した日本語でのバイブルスタディーを基盤にしています。リージェントカレッジのリフレームコースの本編の紹介、ストリーミング及びダウンロード出来るビデオコースはこのリンクからアクセスしてください。


ポール・ウイリアムス先生の講義

キャプション(CC)をオンにして日本語を選択して視聴して下さい。


二つの誘惑 迎合:「この世に溶け込む人」と隔絶:「世捨て人」

私たちの生活に信仰を生かそうとすると困難にぶつかります。復活のイエスとの出会いの興奮は冷めてしまいます。疎外感を感じ、居所を失い、この文化からはよそ者扱いを感じるのです。するとあの2つの誘惑にかられるのです。それは「世に溶け込む」こと、あるいは「世捨て人」となる誘惑です。いずれの方法も私たちがこの世界にとっての恵みにはなれませんし、来る神の御国の予兆をもたらす役割も果たせません。クリスチャンのアイデンティティーへの抵抗が強い世の中で、どうやってキリストに従って生きるべきでしょうか?

16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

コリント第二の手紙 5:16-20

どちらのやりかたもこの世に対して祝福となり、来るイエスの王国のきざしの役割を果たす助けにはなりません。どうやってこの2つの誘惑に陥らないようにするのでしょうか。

私たちの本来のアイデンティティー・市民権

私たちが世界に散り散りになっているから寄留者のように感じるだけではなくて、それは私たちの本来の市民権は天にあるからなんです。私たちの基盤は、天の御国の市民である、と言うことなんです。私たちの忠誠心はキリストにあります。しかるに、神に背を向けたこの世からすれば、私たちはよそ者であり寄留者になるのです。

寄留者である、という事実こそ、善い行いをする理由である、と教会を促すのです。それは、神の似姿をもち、この世に祝福となり、神の和解の働きをにない、それをもたらす代理人として神と人が、人同士が、人と被造物が正しい関係に修復される役割りをになうのです。


「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33

「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々へ」ペテロ第一 1:1 

「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」 ペテロ第一 2:11-12

 「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ピリピ書 1: 27


さすらいの地で2通りの生き方

  1. 異国にて、よそ者だ、と自意識過剰に生きる
  2. 使節・大使として生きる

私たちは神の使節として生きるべきです。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」コリント第二 5:19-20

考えてみませんか?

  • さすらいの身としては、あなたはどちらの生き方になっているでしょうか?異国人として生きますか?大使・使節として生きますか?

ダニエル書から学ぶ

ダニエル書から読み取れること

  • ダニエルは寄留の身のユダヤ人であり、異教の王に仕えるよう無理強いされた
  • 捕囚にあったイスラエルの民は、川向こうに寄留させられ、敵国を憎み、ダニエル達を嫌った

捕囚の民に対しての2つの誘惑とは

  • ダニエル:バビロン文化に迎合・同化
  • 他のイスラエルの民:バビロン文化から隔絶

神の応答

  • 隔絶に対して

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへあたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。』」エレミヤ 29:4-7

神様が偽預言者を糾弾しています。隔絶を選び、怒りと憤りに満ちるのではなく、神は、その地に滞在せよ、と言います。家を建てよ、捕囚のうちでも実を結べ、と語るのです。さらに、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め」なさいと主はおっしゃるのです。

  • 迎合に対して

神は祈りに始まる信仰の仲間たちとの集まりを持つように導いた。ダニエルには、友人のシャデラク、ミシャク、アベネデゴ達があり、ともに祈り助け合いました。

バビロンと言う異文化のプレッシャーの中にあってです。その共同体は、祈りを通して、本来の母国とお互いの意思の疎通を維持する場でした。神様から、与えられている働きにとって必要な満たし、知恵と力を受ける場所でした。

神に仕える者、というアイデンティティーはゆるぎません。 神様のご性質、その力に信頼しているからです。 その地方の神ではなく、全地の神だからです。

考えてみませんか?

  • 私たちの職場でも神様は王である、と信頼していますか。 家では、住んでいる地域や教会と同じに神様は王ですか? イエス様の全権の力のラインは、私たちの活動範囲、影響範囲全てに及んでいますか? この世にあって、神様を信頼しますか? 教会の中で信頼しているのと同じように。

使節・大使として

  • 大使館=エクレシア
  • 地元の教会「エクレシア」

今日の大使館が本国の姿を伝えているように、神の大使館、すなわち教会ですが、神様は神の御国に属する民を教会に招集したのです。教会は、神様がこの世に対しての目的、すなわち恵みと和解の目的を果たすことができる場所、つまりこの世にある訳です。

教会は、神の御国の共同体として、人々がそこにところに来ると、神様の御国の文化を感じ取るのです。人々は、来る世の天のさきがけを体感するのです。

教会が今日の大使館と違う店は、その地元を反映する教会は世界中にありますが、王の王が教会にいつでもおられる、という点です。信者のひとりひとりは聖霊の神殿だからです。

誰かが私たちの教会に来たり、自分と人間関係を結ぶ人が職場とかにいたとすれば、その人たちは、生ける神キリストに遭遇します。神のご臨在が私たちの生活に、まさしく現わされる場所です。

考えてみませんか?

  • あなたは散らされ捕囚の民と感じることがありますか?どんな状況・環境の中でそう感じますか。
  • あなたの通う教会は地元の「大使館」と言えるでしょうか?
  • 地元の地域、仕事場、家庭で、神様に心の目を開いてくださるように、そしてどんな点がその場所の良い点か、どんな点が破れた現実となっているのでしょうか。 どうしたら、神のシャローム、贖いのわざをそこに持ち込むことが出来るでしょうか。