サスペンスやミステリーを映画やテレビで見ている時に、悪者が主人公を狙っているシーンが出てきたりします。主人公は本当ならその狙いに気付けたはずなのに、なぜか襲われそうになってしまいます。観ている方としては、なんで気づかないんだ!と思ったりしますね。「まあ、それが映画だね」なんてつぶやくのです。

同じような気持ちに福音書を読んでいてなることがあります。「全く弟子達はどうしようもないな。どうしてイエスの言っていることが分からないんだろう。いつもずっと一緒にいるのに。」なんて思ったことはありませんか?私はよくそう思います。

でも、いつも、ああ自分も神様に言葉をもらいながらすっとぼけていて弟子達と同じように戸惑ったり、勘違いしたり、怖気付いたりしているのに気がつきます。すると、「見ても見えず、聞いても聞こえず」という聖書の箇所が思い浮かんでしまいます。

こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」

マタイ13:14-15

キリストの十字架を目撃し、悲嘆にくれつつエルサレムから実家のエマオに向かって歩んでいた二人の弟子達も、キリストに遭遇し、直接教えを受けながらイエスに気づかなかったのです。イエスが食事の祝福をして初めて気づいたのです。彼らは、こう言ったとルカは記しています。

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

ルカ24:32

つい最近まさしくそんな弟子達のような体験をしました。

それは最近の週末のことでした。日曜日は教会に新しく集い始めた人たちを招いて歓迎会のランチを開催することになっていました。私はリーダーの一人として細かい段取りと食事の手配が受け持ちでした。ところがその週末、天気予報では大寒波で、土曜日には大雪警報が発令されたのです。

結構大掛かりな準備や招待状を送ってあったのでもし教会礼拝がキャンセルされ、歓迎会が中止となれば用意した食事も無駄になるのです。私は心騒がせ、土曜日はほぼ天気予報のウエブサイトをひっきりなしにチェックし、その度にため息をつき、祈り続けました。

不安は(天気予報も)的中し、日曜の明け方には20センチ以上の雪が積もっていました。主任牧師たちは午前早くにある第一礼拝をキャンセルしました。しかし、午前中に天候が回復する見込みと、幹線道路や教会のパーキングの雪かきが進んでいることから、第二礼拝と歓迎会ランチはそのまま開催することに決めたのです。

礼拝には普段の半分くらいしか集まりませんでしたが、新しく教会に来出した人たちも多く集りました。ランチにも集会室一杯になるほど参加してくれました。用意したサンドイッチが「丁度」なくなるほどでした。給仕役のボランティアの方から、最後に並んでいた方に最後のサンドイッチが渡された、と聞いて、自分はエマオの弟子達のことを思い出したのです。神様はあわれみ深いお方で、忠実なるお方であると讃えました。同時に自分の不信仰を振り返らされ悔い改めました。

私が神様から示されたのは、いかに御言葉がなかなか私の心の深いところに根付き、それが普段の思考や行動に現れてこないか、ということでした。

私はその日曜の週の始めに、このウエブサイトに連載しているルカの福音書の記事を仕上げました。3月18日に投稿されたものです。そこでは、「何度でも赦せ」という不可能な命令をイエスから与えられた弟子達が、「それならもっと信仰をください」と応答する箇所です。イエスは、「そうじゃない。あなたの信仰の量が問題なのではなく、弟子として素直に従い、言われた通り行動さえすれば良いのだ」と語ったのです。

この教えが本当に自分の深いところで心に宿っていたなら、神様の御心に従っていけばそれで良い、ともっと平安のうちに日曜を迎え、そして不安定な天候を見ても、神様の導きを安心して信頼し従えたんだ、と反省したのです。

振り返れば、エマオの弟子達と同じで、「ああ食事もぴったりの量だったし、集まった人たちも教会員や教会のリーダーたちと親しく交流できている。なんと祝福された気持ちにされていたことだろう」と思い、そして初めてイエスがずっと共にいてくれていた、と悟ったのです。