私は教会でオフィス・事務職を務めていますが、だからといって信仰と仕事が常に上手くかみあう、ということはオートマチックにおこりはしません。得てして自分の経験やスキルだけに頼ってしまいがちです。それゆえか、「仕事と信仰」、のトピックには興味があり、一体、今自分はどんな神のストーリーに存在しているのか、などと考えさせられるのです。

またNiBS(このウエブサイトのニックネームです Ni-hongo B-ible S-tudyの頭文字です)でも以前に仕事、職、天職についてシェアしました。

天職

Daily Work – 仕事

 

さて、先日TGC – The Gospel Coalition のブログに、”12 Basic Principles for Faith and Work” というのがありました。「信仰と仕事のための基本12原則」というのです。さっそく興味が惹かれました。以下にご紹介します。オリジナルは、Dan Doriani 氏で、今年8月15日発行でした。リンクはこちらです。 12 Basic Principles for Faith and Work

ドリアーニ氏は、私たちは聖霊によって日々イエス・キリストにならうものとして歩んでいる、と語り、それは、神が私たちをその似姿に創られたことの天命であり特権である、と言うのです。それが神の私たちに与える働きであり、ドリアーニ氏によると、次のような12の原則が仕事について挙げられるといいます。


「信仰と仕事のための基本12原則」

 

1.聖書の神が人の仕事を作り定める

主が天地を創造し、日々それを養っています。(創世記1:1-2 :4、イザヤ書45:18、コロサイ人への手紙1:16-17) 神の似姿に創られているから、私たちはこの世界で創造し、 養い、守る役を担うのが天命である。神はアダムとエバが働くよう命 じた。それは二人の堕落の前のことであり、すなわち働くこと 自体が善であることを示している。(創世記1:26、2:15)

 

2.主は6日間働き1日休まれた。これが仕事のパターンと限度を 示している。

「 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。 あなたはどんな仕事もしてはならない。。。。(出エジプト記)」 主の与える働きのパターンを見れば、ひっきりなしの仕事も怠慢も、 つまり仕事中毒者も怠け者も禁じられているのだ。 働くことは必要不可欠であるが、 労働そのものよりも、人間のほうが大事だ。 神と同様私たちも働き、休み、心を神に向けるのである。

 

3.自ら手を使って働くことによって、イエス・ キリストはまっとうな労働は気高い、ことを実践した。

イエスは羊飼い、農家、大工、召使や病人を世話する者達の働きを尊重した。信者たちに、自らの手で労苦するようパウロが勧めたのを見れば(エペソ人への手紙4:28)、普通、世の中では見下されている肉体労働は、本当は気高い作業だ、とわかる。

 

4.人類が神に逆らったので、被造物も労働も、神ののろいを受けることになった。​

人間の堕落の後、神は地をのろい、 結果として労働はは苦しみの労苦となった。今日、 いばらやあざみによって私たちの作業が障げられ、 無秩序と混沌が被造物に悪影響を与えている。 罪によって私たちの全ての働きが汚されてしまった。(創世記3: 17、ローマ人への手紙8:18-23)

 

5.働くことは義務付けられている

誰もが働く。一つには生計をたてるために。主はその指導者、 召使たち、男も女も、若きも老いも、 全てのイスラエルの民に週の6日働くように、それも「 心を尽くして主のために(出エジプト記​20:9、コロサイ人への手紙3:23、エペソ人への手紙6: 5-9)​」働くようにと命じた。使徒はさらに、「 もし人が働くのを拒むなら、食い扶持を得ることはできません( テサロニケ第二​3:10)」 と語る。 そして、「もしも親族、 ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、 その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。 (テモテ第一の手紙5:8)」と言うのだ。

6.働くことはアイデンティティーを形成する。

人はイエスを「大工​(マルコ6:3)」と呼んだ。聖書には祭司、漁師、兵士、 商売人、取税人など職業とそれについている人のことが記されている。ただし、人のアイデンティティーを決めるのは、 神が人をその似姿に創られた、という事実と、 信じる者達を神の家族に招き入れる、という事実を通してであるが。

 

7.職業と天職は同一ではない。

イエスは木や石を使う仕事をしていた。パウロは幕屋づくりをした。しかし、神から与えられた天職がその他にあった。(使徒の働き18:3、ローマ人への手紙1:1) 今はとりあえずの仕事をしていても、そのうち自分の賜物や興味にあった職につくことがある。そして、最善と思われる仕事でも深いな思いをしたり、苦労する場面に出会うものだ。

 

8.全権の主が職場を与えるけれども、信徒が自分からそこを離れることも出来る。

「あなたは召された時にしもべであったか?」とパウロは尋ねる。「心配することはない。」さらに続けて、もし可能ならば、「自分の自由を得なさい。」と言うのです。(コリント第一の手紙7:17-24) つまり、二つの真理があると認めるのです。神ははっきりとした役割、職にあなたを導きます。しかし、良い理由があればそこから離れることも神に許されるのだ。

 

9.能力は人それぞれである。

まず大事なのは、自分の神から与えられた能力は、多かろうと少なかろうと、忠実に使うべきだということだ。(マタイ25:14-30) 地道な労働は大事に思われるが、実る結果もまた重要である。(詩篇1:3、92:14、イザヤ書32:1-8、45:8、ヨハネ15章、ローマ人への手紙 7:4-5)

 

10.人類の堕落から発生した仕事であっても気高いものである。

人間が労苦することになった多くの理由は人類堕落にある。しかし、罪の結果を和らげるべく努力することは軽んぜらるべきではない。とどのつまり、イエスのあがないのわざ、は「単に」罪の影響をひっくり返したにすぎないからだ。主があがないのために熱意をもって働いたのであるから、私たちも、「主のために、心を尽くして(コロサイ​3:23、エペソ6:5-9)」働くことが出来る。たとえ、その働きは人類堕落のせいで与えられることになったにせよである。警備、ごみ収集、ペスト駆除、末期病の患者をケアすること、などはすべて尊厳あることである。​

 

11.弟子は皆一人一人、神に24時間体制で仕える者として召される

ある種の仕事は聖く、他は世俗的だ、という考えは捨てるのだ。忠実に働く農家、製造業者、エンジニア、教師、家庭の主婦、運転手など、牧師や医師同様、みな神を喜ばせる職業だ。弟子として、働いている時は常に、そこに「御国を来たらせたまえ」と祈ることが可能だ。(マタイ​6:10、33)

 

12.仕事においては私たちは神の手となる。

「日々の糧を与えたまえ」、と祈る時、神は人に農家、パン屋、八百屋などを通して糧を与える。だから、どこにあっても、仕事を通し、仕事において、神の臨在を認めるべきである。(マタイ​25:31-46)