今日はEugene Peterson 先生の言葉から想わされたことをシェアします。
私たちの通う教会は隣接のビルの建築事業中です。着工から2年経ち、7月に完成予定でしたが、諸事情から完成するのが遅れています。一つの問題が解決すると、また別の問題が発生したりと、なかなかスムーズに進んでこなかったように思えますが、実は後から振り返るとその一つ一つは神様のあわれみと大いなる配慮がありました。さあ、やっと完成か、という時になって、二つ問題が発生しました。最後の2つの問題も、コロナが原因だったり、予期できなかったことが理由で発生したのですが、それも解決に導かれています。
「なぜ、どうして」と疑念が常に浮かびますが、同時に、これまで神様は忠実で、正しく導いてくれたので、信頼して自分たちに与えられたミッションを進めよう、と皆で歩んで来ています。
今日紹介する一節はその裏打ちであり、励ましであり、また新たな神様への目と心を向けることができるような言葉でした。
以下はオリジナルの英文と私の対訳です。
「イエスに激しく反抗し、疑いを持って拒絶するもの達は理解に至りません。イエスを拒否するとイエスのことを誤解するのです。しかし、その反対に、イエスに信仰をおけば、理解をする道が開けます。そして、イエスに従うと示されたことがよりはっきりと理解できるようになります。」”Hostile opposition and skeptical rejection prevent understanding. Those who resist Jesus misunderstand Jesus. Faith, on the other hand, opens up the understanding, while obedience clarifies the revelation.”
Praying the Message of Jesus, September 15
このデボーションの一節は、ヨハネ7:32-36の箇所に応じて書かれたものです。聖書にはこう書かれています。
「パリサイ人は、群集がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。」『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
(ヨハネ3:32-36)
イエスのことが分からない、という時、しばしばそれは頭で分からない、というよりも、心で信じられない、というのが本音だと思います。神様は善きお方で、信頼できます。「どうして」という疑惑によって心を閉ざさずに、「それでもなお」と信仰を持って従うとき、イエスの導きの道が明るく照らされます。
イエスは信じているけどなかなか一歩が踏み出せない、という時、今日の言葉を思い返したいです。従うことによってイエスから示された道はよりはっきりするのです。はっきりしたから進むのではなく、進め、と言われたら素直に進めば、必ず道がはっきりとしてくるのです。