ルカの9章に入ってきました。9章は転換期・ターニングポイントです。51節に、「さて、天に上げられる日が近づいて来た頃、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ…」とあります。ルカの福音書には様々な旅路が書かれていますが、このイエスのエルサレムへの旅路には大きな意味があります。それは、「天に上げられる (51)」という言葉で明らかです。
当時、全ての道はローマに通ずる、と言われていました。ローマ、すなわち富、名声、権勢はローマに有り、ということでしょう。しかし、エルサレムへ向かうイエスの進む道は、「十字架の道」でした。救い主としての自分の使命なのです。
そして、この9章はエルサレムへの旅立ちに先駆けて、ルカは「イエスは誰か?」と問いかけます。その問いかけに答えることがイエスのこれからのエルサレムへの歩みを理解する重要なポイントだからです。
このルカのテーマに基づいて、9章を次のような段落に分けて見ました。
9:1-17 「イエスは誰か?」イエスのメシアとしての宣教において
- 弟子達の宣教活動 (1-6)
- イエスの評判 (7-10)
- イエスの喜びの行動 (11-17)
9:18-27 「イエスは誰か?」人々の意見において
- 群衆、弟子達、ペテロ (18-21)
- イエス:十字架と復活、弟子として従うことの意味 (22-27)
9:28-36 「イエスは誰か?」父なる神
- 父なる神の言葉
9:37-45 「イエスは誰か?」十字架の必要性において
- 不信仰な世 (37-45)
9:46-50 「イエスは誰か?」神の御国の姿において
- 神の御国の姿 (46-48)
- 神の御国の立ち行き方 (49-50)
9:51-62 「イエスは誰か?」十字架への道において
- サマリア (51-55)
- 弟子の心得 (56-62)
順番に学んでいきましょう。
9:1-17 「イエスは誰か?」
イエスのメシアとしての宣教において
- 弟子達の宣教活動 (1-6)
- イエスの評判 (7-10)
- イエスの喜びの行動 (11-17)
1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。4 どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」6 十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。
7 さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、8 ほかの人々は、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ」と言っていたからである。9 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。
10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。
11 ところが、多くの群集がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群集を解散させてください。そして回りの村や部落にやて、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから」と言った。13 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」15 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。16 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。17 人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。
ルカ 9:1-17
弟子達の宣教活動 (1-6)
ルカの4章でイエスは旧約聖書イザヤの書から自分に与えられている使命は何か、故郷ナザレで語りました。
「私の上に主の御霊がおられる…」そして「きょう、聖書のことばがあなた方が聞いた通り実現しました。」と語りました。(ルカ4:16-30)
イエスの読んだイザヤの書においての救い主は、貧しいものに良い知らせを伝え、心の傷ついたものを癒し、囚われ人を解放し、全ての悲しむものを慰め、喜びを与え、憂いの代わりに賛美をもたらし、義と栄光が体現される、と語ったのです。
イエスはその救いの技を弟子達を通して行ったのです。後にもっと大勢の弟子たちにイエスは力を与え救いのわざをもたらします。ここでは、弟子たちに実際にイエスが救い主として行って来た宣教のわざを体験させ、理解させようとしたのでしょう。
「何も持っていかないようにしなさい」という命令には表面的な意味と、少し深い意味を感じ取れます。持ち物は不要という意味と、これからの宣教においてはイエスの力無しには何も出来ない、ということを表しています。マイケルカードはこう語ります、「宣教において常に自分たちには何も出来ない、と思い知らされていたでしょう。神のめぐみとユダヤ人たちの親切心だけが頼りになるからです。 “Every moment of the mission will be a reminder of their helplessness. … They will be entirely dependent on God’s grace and on Jewish hospitality.”」
イエスの評判 (7-10)
ルカの福音書には多くの「驚き」が書かれています。イエスのわざに触れたものたちは一様に驚き、怖れかしこんだのです。ところが、当時のガリラヤ地方を治めていたヘロデは、イエスのことを聞くと「困惑した」と聖書は語ります。世間ではイエスの正体について様々な憶測が乱れ飛んでいたでしょう。そのうわさの正体の一人であるバプテスマのヨハネは自分が手にかけたのに、そのヨハネが生き返ったのかも、と言われて胸騒ぎでもしたでしょうか。とにかくイエスに会いたい、と思ったと書かれています。ヘロデがイエスに実際に会うのはイエスが逮捕され、ローマ総督ピラトによる尋問のあと、ヘロデの元にイエスが送られて来た時です。ヘロデに対しイエスは口を聞きませんでした。
「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。」
ルカ23:8-9
さて、ちょっと脱線しますが、聖書には何人かの「ヘロデ」やヘロデ一族が出てきます。Biblical Archaeology Society の Bible History Daily (聖書の歴史デイリー)サイト、2020年12月20日の記事からご紹介します。表の中の番号が下記の説明とつながっています。自分でもこんがらがっていたので役に立ちました。下段に掲載してある英語が原文です。日本語と参照聖句は当方で参考程度までにつけておきました。
Credit: Biblical Archaeology Society
- ヘロデ大王:一族の創始者。ベツレヘムで幼子たちを大量殺戮しイエスを殺害しようとした(マタイ2:16)
- ヘロデ・ピリポ:ヘロデヤの最初の夫で有り叔父にあたる。統治はしなかった。
- ヘロデヤ: 夫ピリポと別れてピリポの異母兄弟ヘロデ・アンティパスと結婚する。
- バプテスマのヨハネ:アンティパスとヘロデヤの結婚に、兄弟がまだ生存している間に兄弟の妻と結婚したことはモーセの律法に反すると、異議を申し立てた。(マタイ14)
- サロメ:ヘロデヤとヘロデ・ピリポの娘。ヘロデヤの策謀でアンティパスの前で踊り、褒美としてバプテスマのヨハネの打ち首を求めた。後に自分の大叔父ピリポ四分領主と結婚する。
- ヘロデ・アンティパス:ガリラヤとぺレアを治めた四分領主。ヘロデヤの叔父であり後の夫。サロメの踊りへの褒美としてヨハネを打ち首にするはめになった。イエスが捕らえられ、裁判にかけられた時にイエスに面会する。(ルカ 9, 23)
- ヘロデ・アルケラオス(アケラオ):ユダヤ,サマリア,イドマエア (イドマヤ) の領主。(マタイ2:22)
- ピリポ四分領主:後にヘロデヤの娘サロメと結婚する。自身はサロメからすると大叔父にあたる。
- ヘロデ・アグリッパ王1世:ゼベダイの子ヤコブを処刑し、ペテロを監禁した。ペテロは奇跡的に脱出した。(使徒12)
- ベルニケ:2度夫に先立たれた後、3度目の夫と別れ、当時愛人とうわさされていたヘロデ・アグリッパ王2世と結婚する。後にフェスト総督による使徒パウロの裁判の場に現れた。(使徒25)
- ヘロデ・アグリッパ王2世:フェスト総督により、パウロの弁論を聞くように任命された。(使徒25)
- アントニウス・ペリクス:ユダヤ総督。パウロの申し立てを取り上げた最初の判事役。次代総督のフェスト就任までの2年間パウロを牢獄につないでいた。フェストに申し立てをした後、パウロはカイザルに上訴した。(使徒24)
- ドルシラ:ローマ総督ペリクスの妻。(使徒24)
- Herod the Great, founder of the dynasty, tried to kill the infant Jesus by the “slaughter of the innocents” at Bethlehem.
- Herod Philip, uncle and first husband of Herodias, was not a ruler.
- Herodias left Herod Philip to marry his half-brother Herod Antipas, Tetrarch of Galilee & Perea.
- John the Baptist rebuked Antipas for marrying Herodias, his brother’s wife, while his brother was still alive—against the law of Moses.
- Salome danced for Herod Antipas and, at Herodias’s direction, requested the beheading of John the Baptist. Later she married her great-uncle Philip the Tetrarch.
- Herod Antipas, Tetrarch of Galilee &: Perea (r. 4 B.C.E.–39 C.E.), was Herodias’s uncle and second husband. After Salome’s dance and his rash promise, he executed John the Baptist. Much later he held part7. Herod Archelaus, Ethnarch of Judea, Samaria and Idumea (r. 4 B.C.E.–6 C.E.), was replaced by a series of Roman governors, including Pontius Pilate (r. 26–36 C.E.).
- Philip the Tetrarch of northern territories (r. 4 B.C.E.–34 C.E.) later married Herodias’s daughter Salome, his grandniece.
- King Herod Agrippa I (r. 37–44 C.E.) executed James the son of Zebedee and imprisoned Peter before his miraculous escape.
- Berenice, twice widowed, left her third husband to be with brother Agrippa II (rumored lover) and was with him at Festus’s trial of Paul.
- King Herod Agrippa II (r. 50–c. 93 C.E.) was appointed by Festus to hear Paul’s defense.
- Antonius Felix, Roman procurator of Judea (r. 52–c. 59 C.E.), Paul’s first judge, left him in prison for two years until new procurator Porcius Festus (r. c. 60–62 C.E.) became the second judge, and Paul appealed to Caesar.
- Drusilla left her first husband to marry Roman governor Felix. of Jesus’ trial.
イエスの喜びの行動 (11-17)
この箇所はぜひ想像力をたくましくして読んでみてください。
この5千人を食べさせる奇跡に対して、しばしば現代人は、奇跡を否定して、何らかの理性的な解決をつけたがるかもしれません。NTライトは、「読者は9章の最初に弟子たちが招かれたように、私たちも未知の世界へと導かれています。そこでは普段は起きないようなことが起きており、それゆえ神様を100%信頼するようにと導かれている」と説明します。
私たちも参加しているのですね。
さて、まず、宣教に送り出された弟子たちが帰ってきて報告会があります。きっとみんな興奮してストーリーを語り合っていたことでしょう。イエスはその労をねぎらうかのように、静かなベツサイダ へと移動します。アンデレやペテロの出身地です。港町だったようで、漁師の出の弟子たちにとっては憩いの、ホッと出来る場所でした。
しかし、評判というのはすごいもので、群衆たちはたちまち彼らの行動を察知して集まってくるのです。今で言えばフラッシュモブみたいにパッと集まったのでしょう。お忍び休暇にはなりませんでした。
「イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」と書かれています。福音を伝え、癒すこと、これはイエスにとってウエルカムなことでした。壊れた世の中にあって、神を頼り、癒しを求める人たちと共に過ごすことを喜びとされていたのでしょう。
しかし、背景にはヘロデを筆頭とした信じないものたち、神に逆らうものたちが暗雲のように立ち込め、「イエスとは何者だ?」とつぶやいています。彼らは純粋な気持ちでイエスのことを追い求めているのではなく、相手を知って、コントロールすること、必要とあれば滅ぼすことを考えていたのでしょう。何しろヘロデは、自分のいとこのバプテスマのヨハネを打ち首にした張本人なのですから。
もう日が暮れて、漁師たちの住む田舎町ではなにももてなしが出来ないと考え、弟子たちはイエスにみんなに解散するよう言って下さい、とお願いします。現代風に言えば、ひっそりと祈祷会をしていたら群衆が集まってきたので、大きなバイブルコンファレンスになって、一日中イエスの教えと癒しが行われていたのです。もうお開きにしましょう、と持ちかけたのです。群衆は誰も帰りたくなかったに違いありません。宣教旅行から戻ったばかりの弟子たちはもう疲労困憊だったのではないでしょうか。ところが、そんな弟子たちに、イエスは、「「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と命じたのです。
私は教会であるカンファレンスを運営をした時に、夕食の食事の量の手配を間違ってしまい、食べ物が足りなくなる、という事態に遭遇したことがあります。でも、電話一本で追加の食べ物をお願いして持ってきてもらって、事なきをえました。でも当然弟子達にはそんな食糧をオーダー出来る店もある訳がなく、弟子達の当惑ぶりは聖書には書いていませんが、容易に理解出来ます。
やっとのことで、一人の少年から5つのパンと2匹の魚を手に入れたのです。(ヨハネ6:9)私には弟子たちの困り果てた顔が目に見えるようです。どんなに頑張って、一心不乱に解決策を探っても、目の前のニーズは到底満たせない、とわかった時のがっかりした気持ち、重々しい気持ちは誰でも経験したことがあると思います。イエスに怒られると思ったでしょうか?イエスを落胆させてしまう、と意気消沈してしまったでしょうか。
マイケル・カードは親友のビル・レインがよく、「君が働くときは、常に自分では役不足だ、というレベルの仕事をするべきだ。“You should always work at the level of your own inadequacy.” 」と言っていたと語ります。イエスに従って生きる、ということは、到底不可能な命令の中に生きていく人生だと受け入れるように励ましているのだといいます。
イエスは静かに「天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」のです。このイエスの仕草はきっと弟子達の目に焼きついたでしょう。
イエスは最後の晩餐で同様にパンをとり、祝福し、裂き、弟子たちに渡されました。またイエスは復活された後、エマオに向かう二人の弟子達と出会い、道すがら聖書全てから救い主について語りました。彼らはイエスに気づきませんでした。しかし、その二人がイエスを食事に招き、イエスがパンを取って祝福し、裂いて渡された時、彼らは目が開かれ、イエスだとわかった、と書かれています。(ルカ24:30-31)イエスはパンを「とり」、「祝福し」、「裂き」、「与えた」のです。
NTライトは「私たちキリスト者は、イエスを礼拝する人生の中から、イエスの癒しを与える、創造力に満ちた力が私たちの人生のあらゆること、行動に現れるように呼び求めるように招かれています。”…we Christians are invited to invoke that same healing, creative power in all that we do, in everything that flows from our life of worship.”」
今あなたの目の前に広がっているのは到底太刀打ち出来ない壁や山でしょうか。自分では役不足だと投げ出さずに、自分の持てる全てを持ってイエスを礼拝すること、イエスに預けることによって、彼の創造の力が及んでくるのです。イエスはそんな救い主だからです。