「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大楯であり、とりでである。」詩篇91:4

聖書を読み進めているともうよく知っている箇所で新しい教えを受けることがあります。デボーションにTim Kellerの “The Songs of Jesus” と言う詩篇からの教えと祈りを読んでいるのですが、Tim Kellerは詩篇 91:1-4 の箇所でこう語ります。(抄訳は筆者)

「旧約聖書はこのどんなものも通さない力強さと、犠牲と愛情のか弱さが神において結び付けられていることについては説明をしていません。十字架においてこそ、神の完膚なきまでの義なる力と、柔和で犠牲を払う愛情が結び合わされ、その両方が成就し、その輝きがきらめいているのです。The Old Testament does not explain how this impervious strength and sacrificial, loving weakness could be combined in God. It is on the cross where we see the absolute righteous power and the tender, sacrificial love of God combine and shine forth brilliantly, both equally fulfilled.」 

Tim Keller, “The Songs of Jesus”

これにはハッとしました。苦難に通らないように、と神の守りを祈ります。そして苦難に直面するとイエスの臨在を祈るのです。この二つのとりなしは区切って考えているよりも結び付けて心に留めるべきでしょう。さもないと守られなかった時に(苦難が来たら)神様に腹を立てるかも知れません。苦難の中でのイエスの臨在に対して、どうして自分を苦難から救い出してくれないのかと物足りなく感じるかも知れません。

どうしても苦難にある時はそこから抜け出すことが最善と思えるのです。だから、「私は共にいます」とイエスが言っても、なんとなくそれはセカンドベストで、ナンバーワンの解決では無いように思えるかも知れません。

もう何年も前になりますが、今はリタイヤしたMark牧師が家庭集会に来て神の翼のデモンストレーションをしてくれたことがあります。祈りのショールについて説明してくれました。頭からすっぽりかぶればすぐに神様と自分の祈りの時がどこでも持てると言うことでした。そしてその場の一人ひとりのところに行ってショールを自分とその人とに被せたのです。親鳥がひなを羽で覆い外敵や厳しい環境から身を犠牲にしてかばうように、神様はどんな状況の中においてもこうやってあなたを守り、あなたは今神様のそばにいるんだ、と感じ取れる、と教えてくれました。時が止まったような気持ちになりました。

「わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」詩篇91:15