読む前の要点:

  • 神と言う存在を「おられる」とするならば、どうしてこの世の中には悪い事が多いのだと思いますか?
  • 神はどうして食べてはならない「善悪の知識の木」(創世記3章)をエデンの園に置かれたのだと思いますか?

神からの独立

「理解できない。」「神を見る事ができない。声も聞こえない。」「この世の中は悪い事が沢山起きている。神が愛を持って人やこの世界を創られたのであればどうしてこんな状態なのか。」大抵の人は一度はそう考えた事があるのではないでしょうか。教えられなくても、周りを見れば - 否、自分の心を見れば認識できるような - 又は肌で感じ取れるような神と人間との間の亀裂はいったいどこの時点で入ってしまったのか。。。。

神、アダム、エバ、エデンの園、禁断の果実、蛇... 伝説であるかの様に多くの人に知られているこの話は、聖書の創世記2章と3章に書かれています。この世界を創り、人を造られた神は、人を「エデンの園」と名づけた園に置かれました。神はアダムとイブに園の手入れや動物たちの名前をつける等の役割を与えました。エデンの園には数多くの果物の木があって、神はそれらの果実を食べ物として与えられました。さて、神はエデンの園の中央に一つだけ食べてはならないと定められた実がなる木を置かれました。それは「善悪の知識の木」と言う不思議な名前の木でした。

“神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」” (創世記2:16-17)

それからどの位時間が経っていたか知られていませんが、ある時二人はこの命令を破ってしまいます。一匹の蛇とイブの会話がきっかけでした。この創世記の箇所では「蛇」とありますが、他の聖書の箇所にはその存在をサタン(悪魔)だと語っています。(黙示録20:2)悪魔が蛇を操ったとも推測できます。とにかくサタン(悪魔)はイブに大嘘をつきます。神は「必ず死ぬ:。」と言われたにも関わらず、善悪の知識の木から取って食べても「決して死にません。」と言うのです。その上真実を曲げて言います。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神の様になり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)サタンはこうやって人を神に逆らう様に誘惑します。 そしてイブはその善悪の知識の実を食べてしまい、アダムにも食べさせます。 神の警告を守る事をせず、神から「独立」した判断に踏み切ったのです。

神に背くと言う、この一つの罪は神が元々意図していた世界を壊す事になります。かいつまんで話すと、この時を境に人と神との間に大きな淵が出来てしまい二人はエデンの園から追い出されてしまいます。背きの罪を犯してしまった二人は神と元々あった親密な関係には戻れなくなりました。二人が人間として与えられた自由意志をもって、聖なる神から「独立する」と言う道を選んだため、潔白差を失って変わりに心に罪の性質を組み込んでしまいます。これを神学では「原罪」と呼びます。独立を選んで原罪を持ってしまった人間はこんな形で神から断絶されてしまいました。

最初に創られて「人類の始め」とされる二人にこうして原罪が組み込まれたので、その後に子孫として続く全人類も同じ様に原罪が組み込まれて生まれてくる様になってしまいました。例えば、柿の木々は実らす実が大きかったり小さかったり、数に格差があっても、柿が実る理由はその木が柿の木だからであって、柿が実るから柿の木になる訳ではありません。それと似ていて、人間達の間でも罪や過ちを犯してしまう事に個人差はあります。しかし、罪を犯して罪人 (つみびと) になるのではなく、原罪を持った罪人 であるから罪を犯してしまうのです。(ローマ7:23-24)

原罪とはすなわち、自分を優先する事、つまり自己中心の心です。その心から色々な形の罪に言葉や行動として発展します。人の心に足を踏み入れたサタンはその時から人類を常に惑わす様になり、人の罪による中傷や犯罪、自然破壊や戦争などが実現してしまう悲しい世界に変わってしまいました。原罪と言うものが生まれた事で、神が言われていた通り、この世界にそれまで存在しなかった「死」と言う物が侵入したのです。病気や老い、そして事件や事故など何処を通っても肉体の死はいつか必ず訪れます。神との和解がないまま人生を終える時、その人の魂は神から断絶されたままの形で「時間」と言う物の枠を超えて永遠に神から離されてしまいます。とても悲しい事です。 (ローマ人への手紙6:23)

なぜ善悪の知識の木?

では、一体なぜ神は例の善悪の知識の木を置く様な事をしたのでしょうか? そんな木を初めから置かなければこんな悲しい結果にならなかったではないかとの批判の声は度々あがります。皮肉な話ですが、実はこの批判の声自体にもその答えが隠れています。 とびら⑤「生きる意味」 で触れた様に、神は人間を他の動物と違って神に似せて創られました。その違いのポイントの一つは、人間には「自由意志」があると言う事です。何処に行ってどの様な行動を取るかと言うレベルの物なら動物でも持っていますが、この自由意志とはそれよりも高いレベルで、自分が物事に対してどの様なスタンス(態度や姿勢)を持つかを選べる自由の事です。

簡単な例えを挙げます。ある人が、一匹の犬を一つの狭い倉庫に閉じ込めて去って行くとします。三時間程して戻ってきて犬を出してやります。その犬はおそらく自由になった事に大喜びで辺りを駆け巡るでしょう。

さてこの人が次に一人の人間を犬と同じ様にその狭い倉庫に閉じ込めるとします (もちろん携帯電話なしで)。三時間後に解放された人物は、喜んで走り回る事はまずないでしょう。この犠牲者は加害者のした事が悪い事だと分かっているので、喧嘩になるか警察沙汰になるかでしょう。人間は相手を裁くと言う性質(スタンス)を持っているからです。

人はそれぞれが持つ理想や都合に合わせて自分の道徳を決め、それを持って政治や出来事や他人を裁いたりします。それだけではなく、完全であられる神を理解できない為、周りで起きている事を見て自分の道徳を使って神を裁く事も出来てしまいます。その他にも神に対してあらゆる立場(スタンス)を持って人は生きています。その存在を否定する、必要ないとする、嫌悪感を抱く、または真剣に神を追究する、従うなどです。それなりの知的能力がある限り、人は何らかの道徳論理に立って生きる事になります。これが「自由意志」です。(申命記6:5)

だから「善悪の知識の木」

人形でもなければロボットでもない。人には自分の意思で神を愛する自由が与えられています(申命記6:5)。 全能であって全ての創り主である神を人はどうやって愛し返す事ができるでしょうか? 愛と言うものは何らかの行動をもって示されるものであり、口先だけでは成り立たないのです。全ての創り主である神に人が捧げる事ができる物は、自身から出る信頼の心と服従の他にはありません。神はアダムとエバに彼らへの最善を知っておられる神を信頼して従う立場を取るか (神中心)、神に背を向けて自分の標準や道徳を切り開く立場を取るか (自己中心) の選択の自由を与える為にあの善悪の知識の木を置かれました。自由意志がある以上、人が罪を犯してしまう事は大きなリスクとして伴われます。当時エデンに立っていたのが誰であったにしても人間と言う存在は神の戒めに何処かの時点で逆らっていたと考えられます。

人類は、聖なる神から「独立」してしまいました。それでも神の憐れみはそれを上回り、私たちが闇の中に滅びてしまうのを黙って見てはおられませんでした。どの時代でも神を呼び求める者たちを常に導いてくださり、和解の道を開くため定められた時代に救い主として御子イエスを送って下さったのです。イエスキリストが、十字架にかかって人類の身代わりとして罪に対する裁きを受けて下さったのです。赦された人は、その人生を終える時、絡みつく原罪を取り除かれて神の国、天国に招き入れてもらえると聖書は教えます。(黙示録22:14) 神の側では、「御子の命」と言う果てしない代価をもって求める者一人一人を淵の向こうから買い戻し、意味のある人生と天国での永遠の命を与える準備が整っているのです。 その和解の道を次の「とびら7  神が取った手段」の章でもっと具体的に学びます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
ヨハネの福音書3:16