自由を手にしていますか?自由を追い求めているのでしょうか?休暇をとったり、夏休みには学校から解放されて、自由を満喫したいと願っていますか?
教会での説教中に、またまた牧師の語った一言にひっかかりました。それは、”Freedom by itself is a blind guide. It needs purpose.” 「『自由』それ自体はあてもなくさまようような道先案内人のようだからです。目的が定義される必要があります。」 という一節でした。 「自由」という概念には、取り扱い注意のラベルがついているんです。目的のない自由は危険な混乱や危険を招くのではないでしょうか。大事なのは、自由になって何をするか、という目的を確立することですね。
カナダは積極的に難民を受け入れる国の一つです。難民の方々は母国を離れ自由を求めてカナダにやってくるわけです。自由は幸せと一体になっているんですね。でも、「自由」を追い求めてその自由を手に入れたら後はどうしたらいいんでしょうか?なんでも好きなことが出来るんですよ、と言われるのは素晴らしいようでいて、不安をかきたてるものでもあります。「自由」には目的がペアになる必要があります。
クリスチャンの求めるべき自由ってなんでしょうか?
パウロはガラテヤ人への手紙にこう書いています。
「このように、キリストは私たちを自由の身にしてくださいました。ですから、この自由をしっかりと握っていなさい。もう二度と、律法にがんじがらめになった奴隷とならないよう、細心の注意をはらいなさい。(ガラテヤ人への手紙 5:1 )」
キリストが自由を私たちに与えた、というのです。(とびら⑯ 「律法」セクション参照)
さらに、
「しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。(ガラテヤ人の手紙5:22‐23)」
とあります。ちょっと待って!聖霊が「支配」する? 聖霊が私たちの自由を奪うのでは?
聖書には
「主は、いのちを与えてくださる御霊です。御霊のおられるところには自由があります。 (2コリント人への手紙3:17)」
どうやら聖霊は自由を支配によって与えるようです。
これを理解するには、冒頭にあげた「自由」とその「目的」を両方定義する必要があります。何でも自由がいいわけではないのは、その目的がどうであるか、によります。またどのようにその目的が達成されるべきか、ということにもかかっています。
クリスチャンの「自由」はキリストの十字架によって、つまり恵み・恩寵によって与えられ、目的はキリストの語る「いのち」しかも豊かないのちを得るためである、と言えます。
イエス様はこう語ります。
「この地上のいのちを愛するなら、結局はそれを失うだけです。しかし、地上のいのちに執着しなければ、代わりに永遠の栄光を受けるのです。(ヨハネによる福音書12:25)」
「強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかしわたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。(ヨハネによる福音書10:10)」
クリスチャンライフは自己啓発、自己研鑽、道徳を高める、ということが目的では無いです。聖霊の実(上述5:22‐23)が複数の実ではなく、ひとつのまとまった実を指しているからです。聖霊の実は自己研鑽のチェックリストではありませんね。どこが弱いかをチェックしてそこを鍛える、というのは的はずれです。 性格がもともとやさしい性格だったら柔和はオッケーとか、明るい性格であれば喜びはもう二つクリアした、ということでは無いんです。聖霊の実は神様の導くもので、すべてが働き合い、自分がもっとキリストに似て行くことを指します。とうてい自力で到達できるものではありません。つまり、キリストの恵みによって働くんですね。
そのキリストが、自分の十字架での犠牲を基にして与えてくれている「いのち」を豊かに生きること、それを目的とするべきなんです。まずキリストの御霊、つまり聖霊なる神に自分を明け渡し、御霊の声に聴きつつ生きて行くのです。
「もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:25)」
ここで導きに従う、というフレーズがありますが、「一歩一歩一緒に歩く」というニュアンスがあります。信仰の歩みは一歩一歩進むことで、その一歩一歩を聖霊からの導きに従うと「いのち」につながるんです。
「あなたがたに勧めます。聖霊の導きに従いなさい。聖霊は、どこへ行くべきか、何をなすべきか教えてくださいます。(ガラテヤ人への手紙5:16)」