2世紀にスミルナ、現在のリヨン、で2代目司教を努めた聖イレナエウスは当時蔓延っていた様々な異端の教えに対して反駁していました。彼はこんな言葉を残しました。

「神の栄光は人がもっとも生き生きしていることである。The glory of God is a human being fully alive.」

どういう意味でしょうか?

この引用は先週の教会の礼拝説教の中で使われました。案の定、説教の内容もさることながら、この言葉にひっかかりました。どこが引っかかったか、というと、神様の栄光がなんか人間の努力によって左右されるようにも思えたからです。

人間が生きがいを見つけて生きる姿のことでしょうか?全力を尽くして努力している姿でしょうか? 試練を耐え忍んで、喜びを見出して生きる姿でしょうか?

確かにそういう生き様は感動的です。しかしイレナエウスの意図した意味では無いのでは無いかと思いました。牧師の説教の内容も、イエスとの関係には「信仰」がポイントであり、自分の力や社会的地位、権威、立場などは関係がない、という趣旨のものでしたから。

だから、確かに人が自分の力の限りを尽くして生きていくことは確かに感動的ですが、それは自分で自分の未来を創り出そうという思いと、自分の力に頼ること、つまり他からの助けに頼りたくない、頼ってはならない、という心の思いによるものでは無いでしょうか。

イエスの姿を見ると一目瞭然です。イエスは常に父なる神の御心を探り、御父の意志に従っていました。そのイエスを信頼し、受け入れることが人間にとって唯一の救いの道であり、贖われたものとして生きるということは、イエスに従って歩むことを意味します。

ついこんがらがってしまうのは、表面的にはどちらの(己の力によって尽力すること、あるいはイエスに頼り生きること)生き方も、生き様も似ているからです。その歩みを側から見てみるなら、いずれも、生きがいを見つけて生きているように、全力を尽くし神を愛し、隣人を愛するように、そして試練の時に喜びを持って歩んでいるように見られるでしょう。

違いは、イエスに繋がっているかどうかです。「生き生きの」源泉が何か、ということなのです。

イエスは、「私こそ道であり、真理であり、いのちです。」と宣言しています。イエスにこそいのちがあります。そのいのちにつながると、人は生き生きとなるのです。自分のタンクからエネルギーを組み続けて歯を食いしばっても、やがて力は、そのタンクの底をついてしまいます。

ヨハネ15:4−5
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」